1. おいたちと結婚

私は1927年2月22日、父・大力万吉と母・ツ子(ツネ)の8番目の子どもとして生まれました。私の上には兄3人、姉4人おりましたが、すぐ上の姉は私が生まれる前に2歳で病死しており、私は7人兄弟の末っ子として育ちました。生まれたのは安芸郡海田町砂走(現在の広島市安芸区海田町砂走)です。実家は農家で、供出(生産農家が政府から割り当てられた量の主要生産物を国に売り渡すこと:広辞苑)などもありましたが、食べることに困ることはありませんでした。父は、都会から食べ物を調達するために来られる人に、おしげもなく芋をあげてしまい、母から小言を言われていたことを思い出します。私はすっかり忘れていましたが、小学校時代の友達が、私はダンス好きでクラスを代表して踊っていたことを覚えてくれていました。末っ子ということもあり、両親や兄弟からはかわいがられて育ちました。父は77歳で、母は98歳で亡くなりましたが、7人兄弟の中で唯一被爆した私を不憫に思い、亡くなるまで心を痛めておりました。

女学校を卒業後、洋裁学校に入学しました。ところが在学中に縁談があり、卒業を待つことなく、17歳で結婚しました。被爆の前年の1月でした。夫は9歳年上の軍人阿部三郎で、当時満州の牡丹江というところで陸軍中尉として軍務についていました。軍の命令で、3ヶ月の休暇の間に妻を娶らねばなりませんでした。彼の理想は10歳ほど年の離れた女性だったそうです。たまたま我が家の一軒おいて隣に彼の叔母さんが住んでおり、縁談が持ち上がったのです。その叔母さんは、子どもの頃からよく知っていました。当時は、親同士が結婚を決め、結婚する者同士は式まで一度も顔を合わせることがないというのは、よくあることでしたが、私たちは結婚までに一度会い、一緒に映画に行きました。

洋裁学校入学式

私たちは実家に近い中野砂走というところに小さな家を借り、ますます激しくなる空襲から逃れるため疎開していた姑と一緒に住むことになりました。大阪府豊中市にあった夫の実家は、疎開中に焼けてしまいました。新婚生活は一週間だけで、夫は満州へ戻っていきました。結婚したのは冬で、一緒に行くには満州はあまりにも寒いということで、春になったら姑と一緒に行くことになっていました。ところが戦局が悪化し、夫は満州に戻ってすぐに南方の前線に送られてしまったため、私たちが満州に渡ることはなくなりました。

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