阿部 静子 Shizuko Abe

「原爆の生き証人」として生きて

2. 1945年8月6日

前日の5日に常会(約20軒ほどからなる隣組の会合)があり、私たちの隣組から10人を建物疎開に出さなければならないので、私に行ってほしいという話がありました。私は普段、割り当てられた量の松根油や馬の餌用の干し草の供出が十分できず、隣組の人たちに心苦しく思っておりましたので、「行きます。」と申し出ました。ところが帰宅して姑にそのことを話しますと、姑は、

「我が家からは息子がお国のために戦地で奉仕しているのに、嫁まで出ることはない。」

と叱られました。

私たちの隣組からの10人は、中野の他の隣組から来た人たちと一緒に、6日朝7時前に安芸中野駅で汽車に乗り、広島駅まで行き、駅から歩いて平塚町にある建物疎開の現場まで行きました。爆心地からは1.5キロです。8時にはすでに作業は始まっていました。その現場には私たちだけでなく、広島市内、郊外各地から動員された義勇隊や中学生、女学生が大勢いました。砂走からの10名を率いていた班長さんは、20代後半の青年でした。高齢の人たちは、木陰で動員された人たちが持ってきていた防空頭巾や救急袋やお弁当などの荷物の見張り番をしていました。誰かが見張っていないと盗まれてしまうからです。建物疎開とは、空襲を受けたときに延焼を防ぐ目的で、指定された地区の家々を壊して空き地を作ることです。私は数人の人たちと一緒に一軒の平屋の屋根に上り、瓦を丁寧に剥がし、それを二枚ずつリレーしていく作業をしていました。瓦は再利用できるから家を壊す前に剥がされ、とっておかれたのです。

米軍機が近づいてきたことなど全く気づきませんでした。突然プシューという音がしてあたりが光に包まれました。その瞬間、私は10メートルほど飛ばされました。何人かは屋根に載っていたはずですが、その人たちがどうなったか分かりません。しばらく気を失っていました。どれほど気を失っていたかは分かりません。気づいた時にはあたりは塵や埃が舞ってほの暗く、異様な臭いが漂っていました。人間の皮膚が焼けた臭いです。壊れた家の下敷きになっていた人たちの「助けて~。」「助けて~。」という声が聞こえました。私はひどい火傷をしていて、とても助けられる状態ではありませんでした。

頭は自分で古いシーツを切って縫った白い帽子をかぶっていましたから火傷をしていませんでした。けれども帽子のすぐ下の眉毛が焼けていましたし、右側から熱線を受けたために顔の右半分がひどく焼け痛かったです。半袖のシャツを着ていましたので、右腕の袖の下の皮膚が指の先まで焼け、ずるっと剥け、爪のところで止まり、その先から垂れ下がっていました。腕を下げるとひどく痛むので、自然に胸の前にあげていました。班長さんが、どこかで棒のような木切れを拾ってきて、私に一方の端を持たせ、引っ張って歩かせてくれました。火のあがっていない南の方へ向かって、大勢の人々のあとをついて歩きました。みんな体中に火傷を負っていて、腕を前に出し、まるで幽霊の行列のようにだらだらと当てもなく歩いていました。私たちが逃げた時には、まだ火はそれほど大きくなかったのですが、ものすごい風が舞っていました。歩けない人やガレキに挟まって動けない人は、その後迫ってきた猛火に、生きながら焼かれ亡くなられたのだと思います。

火傷を負い体中が痛い中、折れた電柱やガレキ、倒れた人などをまたぎながらずいぶん歩いたと思います。(後に8キロと知りました)入川(現在の広島市安芸区)にある日本製鋼所というところまで来ると、従業員の、

「ケガをしている人は入ってください。手当をしていますよ。」

という声が聞こえました。見ると長蛇の列ができていて、疲れ果てていた私は並ぶ気力もありませんでした。当時この会社は軍需工場となっていました。工場の建屋の表には長い軒が陰を作っていて、ケガを負った人々が、所狭しと横になっていました。工場に動員されていた大勢の女学生が、横になっている負傷者に油を塗ってまわっていました。「お父ちゃん。」「お母ちゃん。」「痛いよ~。」などといううめき声があちこちから聞こえてきました。私も日差しを避けるために隙間を見つけ横になりました。治療といっても火傷に油を塗ってくれるだけでした。班長さんとはここで別れました。彼もひどい火傷を負っていました。その後、彼がどうなったのか分かりません。そのころには火傷をしたところがひどく腫れ上がり、膿が流れ出しました。また顔の腫れで目もふさがれ見えなくなっていました。高熱も出てきました。翌日にはその膿の上をウジが這い回り、とても痛かったです。

意識がもうろうとしたまま、そこで2日間横になっていました。その間水一滴口にしていません。空腹すら感じませんでした。3日目に父が探しに来てくれました。父は私が市内にいるものだと思い、それまで市内各地の救護所を探し回っていたそうです。「静子」「静子」

という父の声が聞こえ、「ここよ。」と返事をするのですが、あまりに風貌が変わってしまっていて、何度も「ホントに静子か?」と聞き返されました。父はいったん家に戻って、近所の人からリヤカーを借りてきてくれ、私を乗せて連れ帰ってくれました。リヤカーは長さが1メートル少しくらいで、体を折って乗っていました。当時の道路は舗装されておらず、石ころだらけで、デコボコが火傷にひびき辛かったです。しかしまだリヤカーだったので車輪にゴムのタイヤがついていましたが、その当時は荷を運ぶために、大八車という木の車輪のついた荷車がほとんどで、大八車で迎えに来てくれていたら、もっとデコボコが体にこたえたことでしょう。

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