阿部 静子 Shizuko Abe

「原爆の生き証人」として生きて

5. ケロイドの手術

両親は一刻も早く整形手術を受けさせたいと願っていましたが、ちょうど翌年2月17日に当時の幣原内閣が突然実施した「預金封鎖」によって、それまでの預貯金は一定額以上引き出せなくなってしまいました。今では被爆者の治療費は無償ですが、当時は自分で負担せねばならず、治療に必要な金額が銀行から引き出せなくなったのです。また妊娠していることが分かり、できるだけ早く手術を受けさせたいという両親の思いもあって、6月に入ってようやく入院し、手術を受けることになりました。入院したのは陸軍病院(現広島県立病院)で約100日間入院し、軍医さんの執刀で、顔や手、足などに10数回ケロイドの切除や皮膚の移植手術を受けました。

口の右下にケロイドがあるため口が引っ張られ、口に入れた物がダラーと落ちてしまっていましたので、まずこのケロイドを取りました。しかしケロイドは一度取ってもまた同じように盛り上がって引きつるのです。その痕には顎の皮膚を移植しました。腕のケロイドは切り取り、周りの皮膚を引っ張って縫い合わせます。二カ所のケロイドを取ったところで、あまりに痛くて、もう腕の手術は断念しました。腕は赤く腫れ上がり、ケロイドがいくつもあって盛り上がり、引きつって、近所の人から、「まるで松の幹のようじゃね。」と言われるような状態でした。驚いたのは、手の甲の手術です。お腹の皮膚に漢字の「二」の字のように切り込みを入れ、薄皮を浮かせ、その薄皮の下に右の手を入れ、固定します。一週間ほどでお腹の皮膚が手の甲でうまく定着すると、今度は手を外す手術を受けるのです。右手は何度も手術をしましたが、今でも親指は全く動かず、4本の指は甲の方に引っ張られ反ったままです。右足は紺色のモンペを履いていましたので、他の箇所に比べれば軽傷でしたが、それでもひどい火傷を負っていて治療をしていただきました。戦後すぐという時代のことです。医療設備も薬も十分にありませんでした。手術の途中で麻酔が切れてしまったこともありました。術後の痛みにも痛み止めなどの薬をいただける訳がありませんでした。繰り返される手術で、入院中は痛みとの闘いでした。

その後、さらに手術が必要だと言われていましたが、子どもがいるのに母親が入院を繰り返すなど、近所の人々や学校関係の母親たちに、「被爆者は入院ばかりして弱い。」「だから被爆者なんかと結婚するもんじゃない。」と言われかねません。そのため子どもの手が離れるまでは一度も手術を受けることはありませんでした。3人の子どもたちが独立した後、1980年に原田病院の原田東岷先生に腕と頬の皮膚の移植手術を数回していただきました。それまで動かなかった右腕が、ようやく振って歩けるまでになりましたし、食べるのに苦労していた口のゆがみも改善され、ずいぶん楽に食べられるようになりました。被爆翌年に受けた手術とあわせて18回の手術を受けました。原田先生は優しい方で、被爆者医療に生涯を捧げられた方です。

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