阿部 静子 Shizuko Abe

「原爆の生き証人」として生きて

6. 戦後の生活と被爆者のつどい

戦後、元軍人は嫌われ、夫はなかなか就職できませんでした。親戚の材木屋で働かせてもらっていましたが、重い材木を運ぶ仕事で腰痛を発症し、働けなくなってしまいました。その後県庁に就職し、定年退職まで働きました。私は右手の指が後ろにそったままで、動かすことができず、左手だけでできる畑仕事やたきぎ拾いなどをしました。家事の多くは姑に頼らざるをえませんでした。

1947年に長男、1950年に次男、1954年に長女が生まれました。被爆者が子どもを生むと障害を持った子が生まれると言われていましたので、3人とも元気に生まれ、ほんとに嬉しかったです。夫は教育熱心な人でした。家計はいつも火の車でしたのに、どうしても子どもたちには大学教育を受けさせると堅く決めており、私が外で働くこともできず、教育費の捻出のために日々節約をして暮らしました。実際に子ども達は全員大学を卒業しました。

被爆者であることで差別はひどかったです。近所の人、夫の親族などから

「離縁もされずに、よく戻ったもんだ。」

「赤鬼!」

などと言われ、子どもの参観日でもうつむいていました。子ども達も他の子達から「ピカの子」と呼ばれていたそうです。息子の結婚式でも、ずっとうつむいていました。また同じ被爆者であっても、外見には何の傷もない人からも差別され、ひどい言葉をかけられました。被爆者同士であっても症状の軽い人は重い人を見下すのです。まして被爆していない人からは見下されてきました。人は他人の痛みを分かろうとはしないものだとつくづく思いました。

そんな中、戦後2年目に催された花火大会で、原爆ドーム近くで自らのケロイドを晒し、原爆の悲惨さを訴えていた吉川清さんに出会いました。彼は「原爆一号」と呼ばれた人です。

吉川さんのバラック(平和記念資料館特別展より)

彼がドーム近くで出していたバラックの店の前に「被爆者の方は気軽に声をかけてください」という看板があり、思い切って声をかけてみると、

「つらい時はここに来てください。同じ苦しみを持っている者同士、話をするだけで気持ちがなごみますよ。」

と言われました。その後、何度となく被爆者の集会に行かせていただき、共に苦しみを吐露し合い、涙したものです。同じ辛苦を味わった被爆者の前では心から笑うこともできました。被爆者同士で話をすると、心から楽しめ、終電を逃し歩いて帰ったこともあります。この会は10年ほど続いたと記憶しています。吉川さんの隣にバラックを建てていた河本一郎さんも参加され、熱心に被爆者のために奔走されていました。彼はその後、佐々木禎子さんが亡くなった時には、彼女の級友達とともに「原爆の子の像」の建立のために尽力されました。また「折鶴の会」を作り、広島女学院の学生たちとともに折鶴を折り千羽鶴を作り、碑にそなえたり、被爆者のところに持って行ったり、国内外から送られて来る千羽鶴を「原爆の子の像」に捧げたりする活動をされました。河本さんの奥様の時恵さんとは、「平和巡礼」でご一緒しました。

吉川さんたちの集まりとは別に、皆から「田辺先生」と呼ばれていた文筆家の田辺耕一郎氏が、自宅を被爆者のために年に何度か開放し、食事をふるまってくださっていました。お正月には、奥様手作りのちらし寿司や故郷山形の雑煮なども出ました。毎回10人くらいの被爆者が集っていました。田辺先生は、日本ペンクラブの会長であった川端康成氏(1968年ノーベル文学賞受賞)を広島に招くよう広島市に働きかけ、原爆のもたらす惨禍を、ペンクラブを通じて世界に発信して貰うよう尽力した方です。川端氏は広島市の招聘を受け、1949年広島を訪れ、その実情に衝撃を受け、翌年イギリスのエジンバラで開かれた国際ペンクラブ大会へ日本代表を派遣し、被爆地の惨状を伝えました。被爆者の苦境を知って、国際ペンクラブ理事で米国人作家アイラ・モリスと妻エディタが中心となって、被爆者のための「憩いの家」が宇品に開設され、その後長く運営資金は送り続けられました。後に平和巡礼への参加を勧めてくださったのも、この田辺先生でした。

広島八・六友の会

被爆者同士で集まり、自分たちの苦境を語り合うだけで、心がなごみました。このような集いはもっと頻繁に開かれていたかもしれませんが、家が貧しく私が参加できたのは年に数回だけでした。それも汽車賃がなく、海田から歩いて出かけたこともありました。

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