阿部 静子 Shizuko Abe

「原爆の生き証人」として生きて

8. バーバラ・レイノルズさんと平和巡礼

ある時、憩いの家の田辺先生から、バーバラ・レイノルズさんが主宰する「ヒロシマ・ナガサキ世界平和巡礼」に参加しませんかと声をかけられました。バーバラさんは、アメリカ人の熱心なクウェーカー教徒で、1951年に、当時の原爆傷害調査委員会(現、放射線影響研究所)の研究員だった夫とともに広島を訪れ、原爆被害の悲惨さを目の当たりにされました。1958年には、夫とともに太平洋エニウェトク環礁の立ち入り禁止海域にヨットで乗り入れ、米国の水爆実験に抗議されたり、1961年には家族とともにソ連の核実験再開に抗議するため、ナホトカ近くまでヨットで向かわれたりしました。また被爆の実相を世界の人々に知ってもらわなければ、核兵器は廃絶できないと考え、1962年2月から5ヶ月間、被爆者の英(はなぶさ)宏昌さんと松原美代子さんを連れて、アメリカ、ヨーロッパ各国、ソ連等14カ国を回る「ヒロシマ平和巡礼」を実施されたのです。

カリフォルニア州知事に面会

今回の巡礼では、広島、長崎の被爆者27人が選ばれました。その中には、医師3名、記者3名(中国新聞、フクニチ新聞、読売新聞)を初め、学者、牧師、農業、教師、保母、会社員など様々な職種の方々が含まれており、それぞれの被爆体験とともに専門分野から発言することが求められました。英語が話せない人には一人ずつに通訳がつけられました。通訳は全員国際基督教大学の学生で9人いました。前回の経験から、バーバラさんは、通訳を同行させなければ、現地の言葉から直接日本語に訳す通訳を探すのは困難で、最低でも英語の通訳は必要だと痛感していたからです。バーバラさんの娘さん、息子さんも同行し、総勢約40名にも及ぶ大きな団体になりました。団長は、原爆投下時、広島女学院院長で、広島女学院大学学長を兼任されていた松本卓夫氏(巡礼時は静岡英和女学院院長)で、当時広島女学院では352名の生徒と18名の教師が死亡し、妻も亡くされました。ご自身も被爆されています。巡礼の旅は75日間に及び、訪れた国はアメリカ、カナダ、イギリス、フランス、ベルギー、東西ドイツ、ソ連の8カ国、150都市でした。

1964年4月16日に広島を出発し、まず箱根で4日間、訪問先の国々について専門家の講義を受けたり、マナーの講習を受けたりしました。その後羽田に移動し、ハワイに飛びました。私は到着したオアフ島からハワイ島に移動し、そこのお寺に4~5日宿泊しながら、証言をしました。被爆者はそれぞれ通訳とともに別々の場所に行き、証言をしましたので、他の方がどこで、どのようなことを話されたのかは分かりません。

ハワイからは全員でロサンゼルスに飛びました。米本土では北部、中部、南部コースの3つのグループに分かれ証言活動をしました。私は南部コースでした。東海岸に到着するまでに途中、数カ所で全員集合することもありました。移動はバスや車です。訪問先は大学や高校、公民館、教会などでした。私たちに与えられた休日は週に一日、水曜日だけで、毎日2~3カ所で証言をしました。休日には疲れ果てて昼近くまで寝ているときもありました。宿泊はロサンゼルスのホテル一泊以外、すべてホームステイでした。

学校で証言すると、若い人たちから必ず、

「原爆で何十万人ものアメリカ人の若者の命を救えた。」

という言葉が返ってきました。私はアメリカでは、原爆の被害は徹底的に隠され、教育では投下の正当性のみが教えられているのだなと強く感じました。日本でもアメリカの占領下では、原爆の被害に関する記述や証言、写真などは検閲を受け、一切外に出すことはできなかったのです。広島・長崎の被害の実態は、日本国内だけでなく、世界にも何も伝わっていなかったのです。

各地での集会では、「リメンバー・パールハーバー!」などという厳しい言葉をかけられることはありませんでした。聞きに来てくださった方々は、その言動から「すまないことをした。」という気持ちを持たれているように思えました。それまで被害は軽微だったと報道されていたらしく、実際に被爆者を見たり証言を聞いたりして驚かれているようでした。私は逆にアメリカ人の温かいもてなしに本当に驚きました。日本では被爆した者に対して、直接汚い言葉を投げてくる人もいましたし、近寄らないように避ける人もいました。しかしアメリカではこのような姿になってしまった者に対して、誰もが温かく接してくださったのです。アメリカに来て、被爆後初めて人間として扱ってもらえたと感じました。それまで日本で感じていた心の傷も、アメリカに来て徐々に癒やされていきました。中国の孟子の言葉に、「恒産なくして恒心なし」(ある程度の安定した財産がないと、心も動揺しがちで、安定した状態を保つことはできないものです。清貧に甘んずることは、心構えとしては立派ですが、一般の庶民には難しいことです。)というのがありますが、アメリカに来て、その豊かな生活と弱者に対する思いやりを垣間見て、この故事が思い出されました。

アメリカで証言を重ねていくうちに、私は「原爆の生き証人」として、被爆の実相を知らない人に伝えるのが自分の使命であると考えるようになりました。アメリカを恨んでいるわけではなく、核兵器の恐ろしさを伝えるために来たこと、真実を知らなければ核兵器はなくならないと思っていることを話しました。みなさんは真剣に聞いてくださいました。

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