寄稿

「集団自決(強制集団死)」森住 卓

高校社会科の教科書の検定問題について、写真家の森住卓氏が現地で詳細な取材をされ、以下の文を送ってくださいました。転載可ということで、HSOの寄稿ページで紹介させていただきます。
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森住 卓(寄稿)

9月27日から10月13日まで沖縄で「集団自決(強制集団死)」の取材をしていました。
その時出会った人々のことを記しておきます。

「集団自決」の舞台となった渡嘉敷村と座間味村は沖縄本島南部の西方海上の慶良間諸島にあります。(集団自決はここだけではありません)
周辺の海は世界有数の透明度を誇っておりダイビングポイントもたくさんあります。この海域は毎年春になると鯨がやって来る、ホエールウオッチングも出来る観光名所です。
那覇からの高速船は戦争体験のない若者たちで一杯でした。彼ら多くは62年前、太平洋戦争末期に起こった、この島々の悲劇を知る者は数少ないのではいでしょうか。

1945年太平洋戦争末期、押し寄せてきた米軍艦船で渡嘉敷村、座間味村の島々の海は埋め尽くされました。船伝いに本島まで渡って行けるようだった、と当時の目撃者の話しです。小さな島は敵艦船に包囲され、連日激しい空襲と艦砲射撃が豪雨のように降り注ぎ、島の地形が変わってしまうほどでした。島にある船は破壊され、逃げるすべもなく島は完全に孤立しました。
「必ず友軍が巻き返しに来る」事を信じて疑うものはいませでした。
「一億玉砕」「生きて虜囚の辱めを受けず」の精神が浸透した魔の戦場と化したのです。「鬼畜米英」とすり込まれた住民は、「米軍に捕まれば男は八つ裂きにされ、女は強姦されて殺される」と信じ込まされ、捕まるより「天皇陛下のため、お国のためにいさぎよく死のう」とすり込まれていました。
米軍が上陸した3月26日(座間味)、27日(渡嘉敷)以後、集団自決(集団強制死)が始まったのです。

「集団自決(強制集団死)」を体験した証言者は62年間ずっと苦しみを背負って生きてきました。
自分たちの体験が歴史教科書の中で歪曲されてしまうことに、身を震わせて怒っていました。自分の体験が歪曲されて後世に伝えられてしまったなら、同じ過ちが繰り返されると。

身内を殺し、死のうと思っても死にきれず生き残ってしまった人々の苦悩は想像を絶するものがあります。生き残ったひとびとのインタビューで「体験していない者には本当のところを理解できないですよ」と言われた時に、確かにそうだと思いましたが、同時に「あなたはジャーナリストとしてどのように伝えるのですか?」と問われたのだと思っています。
世界の戦争被害の歴史の中で、これほど残酷で無惨な体験を私は聞いたことがありません。

1945年3月末、米軍が上陸した後、米軍に追い詰められ、日本軍から保護を受けらられなかった住民は「愛する故に愛する我が子を、妻を殺さなければならな」かったのです。「天皇陛下バンザイ」を叫んで。
渡嘉敷では米軍上陸の1週間ほど前に兵器軍曹が役場職員や青年にひとり2個ずつ手榴弾を配りました。「一発は米軍に投げ、一発は自決用に」と。
「生きて虜囚の辱めを受けず」「天皇のために、お国のために死になさい」と教育された住民に残された選択はひとつ。「自決」しかありませんでした。しかも、軍から手渡された手榴弾は操作の不慣れや不良品で、多くが爆発しませんでした。
手榴弾を持たない住民は鎌や棒きれ、石、カミソリ、縄や紐で、そして幼子を燃えさかる炎の中に。最後に残された父親は死にきれず気が狂ってしまったのです。
16と18才の兄弟は大人達がどうやって殺すのか、その殺し方をじっと見ていました。二人はやがて母と妹、弟を石で殴り殺したのです。

座間味国民学校の校長先生は妻と2人の女教師や住民と壕に隠れていました。米軍が迫ってきたことを知った校長先生は静かに「皆さん、こちらに集まってください」と住民をひとかたまりに集まらせたのです。そして「天皇陛下バンザイ」と叫んだ直後、手榴弾が爆発しました。2人の女教師は瀕死の重傷を負いました。
校長先生と妻は死にきれませんでした。やがて校長先生は妻を抱き寄せ、鞄からとり出したカミソリで妻のクビを切り始めました。じっと目をつむったままでした。そのため、妻のどこに刃が当たっているのかもわからず、何度も何度もクビに切り込みを入れてゆきました。妻は「まだですよ、まだですよ」と言いながら、やがて大量の出血で意識を失って行きました。
押し黙っていた校長は自分のクビに刃を当て一気にカミソリを引きました。
「プシュー」と言う鈍い音ともに鮮血が噴き出し周りを血の海にしました。
狭い壕の中、校長先生の向かい合わせに座っていた9才の少年が全てを目撃していました。
飛び散った校長先生の血が少年のシャツを真っ赤に染めました。その時の少年は「血が生暖かかった」ことを今も鮮明に覚えています。

「鬼畜米英」の思想は米軍に遭遇したときに米軍を憎しみ殺すという思想でした。
しかし、武力を持たない、逃げまどう住民は戦場で圧倒的な火力をもつ米軍に遭遇すると、憎しみが恐怖に変わり、米軍に向ける刃を愛情をもつ家族に向けたのです。
「殺意無き殺人、愛するが故の殺人」天皇制がいかに残酷で、残虐であるかを最も劇的な形で現れた事件でした。

さて、文科省が高校歴史教科書の書き換えの理由にした裁判で座間味の元部隊長・梅澤裕元少佐は「軍命ではなかった」と名誉回復を求めています。
しかし、彼は米軍上陸後、次ぎつぎと突撃命令を出し、多くの将兵を死に追いやり住民をスパイとして虐殺し、自決へと追い込んだ責任者でした。
梅澤少佐は、朝鮮人慰安婦をはべらせ壕を転々と逃げ回り4月10日、各隊に独自行動を命令。部隊の事実上の解散宣言をしてしまいました。
本人は自決もせず生き延びました。米軍に捕まったとき朝鮮人慰安婦と一緒で、住民から石を投げられ、米軍に保護されながらトラックに乗せられ連行されました。
その梅澤元少佐が1980年に密かに座間味を訪れました。目的は「軍命はなかった。
住民は自発的に集団自決した」という証言をとるためでした。
元村収入役謙兵事主任の弟A氏に会い、「一筆書いて欲しい」と頼んだのです。
しかし、元助役の弟は拒み続けました。元助役の弟は戦時中、徴兵され福岡県の部隊に配属されており、座間味にはいなかったのです。
A氏はお酒が大好きでした。そこに目をつけた梅澤元少佐は早朝から酒をすすめ酔わせたのです。酔ったA氏はそれでも「嘘の証言を書くこと」を拒み続けました。
梅澤は「母が住民自決を命令した息子を持って肩身が狭いといっている。母を安心させるために、自決命令は出さなかったという証人になってくれ。この文書に署名してくれ。この文書は母に見せるだけで他に使わない」と約束し事前に用意してきた文書にA氏の印鑑をつかせました。

その5年後神戸新聞に「座間味の集団自決に梅澤氏の命令はなかった」との記事が掲載されました。そしてこの文書は裁判の証拠として提出されているのです。
梅澤元少佐はA氏を二重三重に貶めたのです。

深い傷を心に秘めた人々から証言を聞き出すことは、かさぶたをはがして、血のにじみ出た所から傷口に入り込むような残酷さがあります。
しかし、この作業なしに歴史を後世に正しく残せません。
渡嘉敷島で証言してくた97才になるおばあさんが自決現場近くに案内してくれました。しかし、身体が震えて現場までたどり着けませんでした。
インタビューが終わると1時間も泣き続けていたと、あとで長男から聞きました。

証言をしていただいた方々の心の奥にしまい込んだ深い傷を思うとき、一度や二度の取材でこの人々の痛みを理解したなどと絶対に言ってはならないと固く思ったのです。
これまで、これほど真剣に取材対象と向き合ったことはありませんでした。
(今までは真剣ではなかったと言うことではないのですが)
この取材はある意味、命がけ。中途半端は許されない、心してかからねばならいと思っています。