寄稿

「少女は何をしていたか」山家衛艮

2019年度文芸思潮エッセイ賞:優秀賞受賞作品
著者 山家衛艮 寄稿
この文章の著作権は、山家衛艮氏にあります。

その写真を最初に見たのは中学生の時だった。

そこに写る一人の人物に奇妙な感じを抱いたことは、いまだに憶えている。

その少女は小学生、良くて中学生くらいだろうか。やや膝を曲げて腰を落とした状態で、右足が上がっている。何か激しい動きをしている瞬間であるらしい。その姿勢で静止することは不可能なので、他の人々とは明らかに別の事をしているはずだ。この少女、一体何をしているのか。

写真は1945年8月6日の午前11時前、広島市の御幸橋西詰で撮影されたもの。核兵器で負傷した一般市民とその混乱の様子を収めた、史上最初の一枚である。少女はその写真のほぼ中央、路上の何かを拾おうと身をかがめている白いシャツを着た人物のすぐ左に写っている。右側には軍服のような制服を着た無傷の人物が身をかがめ、その人物を数名の負傷者が取り巻いている。少女の左には、橋の隅に腰を下ろし、あるいはうずくまり、身を横たえる重傷者と思しき人々が並ぶ。皆熱線でちぢれてしまったぼさぼさの頭で、着衣もぼろぼろ、もしくは裸に近い。

因みに、この制服姿の男はすぐ近くの交番の警察官で、火傷を負った人々に応急処置を施していた。逃げてくる人々がひどい火傷を負っているのを見て、近くに食用油の備蓄があったのを思い出し、運んだ一斗缶の油を負傷者の火傷に塗っていたのだ。取り巻いているのは、次の処置を待つ負傷者たちなのだろう。

件の少女は、一見その警察官に駆け寄っているようにも見える。しかし、彼女のすぐ後ろには、橋の隅にうずくまる人々がいる。彼女の躍動と距離感がどう考えても不自然だ。また警察官に向かって駆けているなら、上体が前傾して歩幅ももっと開いている必要がある。何やらこの少女、駆け寄っているのではなく、垂直にジャンプしているように見えるのだ。

最近、およそ30年を経て、この少女の不可解な跳躍の意味を知ることが出来た。この写真に写る人物の一人が、この少女について証言していたのである。

この奇妙な少女は、両手で真っ黒なものを抱えていた。その黒い何かに対して、絶叫していたのである。「起きて! 起きて!」と。

その証言を知って僕は非常に驚いた。彼女が何かを抱えているようには見えなかったからだ。

証言したのは、一枚目の写真では右端に、続く二枚目の写真ではほぼ中央に写る、三角襟のセーラー服を着た少女。河内光子さんといって、当時13歳だった。

「ものすごい声でした。おさげを結んでいるし、多分お姉ちゃんだと思うんです。真っ黒に焼け焦げて死んでしまった赤ちゃんに、“起きて、起きて”と呼びかけて、必死に揺すっていました」

河内さんは、この少女について他の場所でも証言していたらしい。それによると、この少女の絶叫は“起きてや、起きてや”、あるいは“坊や起きて、坊や起きて”という言葉として河内さんに記憶されていたようだ。

河内さんの“坊や”というフレーズから考えると、赤ん坊は少女の弟だったのだろう。おそらく、少女は弟の名前をそのまま口にしたか、“○○ちゃん”という具合に呼んだのではないか。それが男の子の名前だったことが記憶に残っていて、河内さんが代名詞的に“坊や”という言葉を用いたと僕は想像する。

この少女は真っ黒に焼けてしまった弟を抱きかかえ、恐らくは「○○(弟の名)起きて! ○○ 起きて!」と絶叫しながら、その意識を呼び起こすべく飛んだり跳ねたりして揺すっていた。この写真には、そうした少女の錯乱状態が写っているのだ。

謎が解けたとき、背中が冷えるのを感じた。少女の哀れさに対してではない。30年来、自然に見える他の被爆者のありようの中で、彼女一人が奇妙だったように感じていたその印象が、実はまったく逆だったことを思い知らされたからだ。

この少女が奇妙に見えるのは、そこに写る他の人物が、誰一人として少女に意識を向けているように見えないからだろう。

橋の隅に座る人々は、おおよそ写真の奥の方を向いている。その先には、広島の街が猛火に包まれており、逃れてくる人々もそちらからやって来る。被爆者たちが写真奥の方に意識を向けるのは、極めて自然であろう。

警察官とそれを取り巻く人々も、彼が応急処置を施していることを踏まえれば、皆の意識がそこに向くのは当然だろう。こちらも何ら不自然なところはない。

少女はそうした“自然な”場の中で、焼け死んだとしか思えない赤ん坊を抱きかかえ、恐らくは弟の名を絶叫しながら、その意識を呼び覚まそうと、極めて異常な行動を取っていた。もし彼女が少女ではなく、母親ともみられるような姿だったのであれば、ショッキングではあっても奇妙な感じにはならなかっただろう。

しかし、当時13歳だった河内さんよりも幼く見える少女がそのように錯乱していたのなら、誰にも疑問が浮かぶはずだ。少し考えれば想像するところも出てくるだろうが、見た瞬間に納得できる光景ではない。

ところがこの構図の中では、少女への意識が完全に抜け落ちている。彼女のすぐ右に写る、身をかがめて地面の何かを拾おうとしている白シャツの人物にさえ、少女への関心が全く感じられない。後にこの少女について証言した河内さんにも、この写真からは少女への意識が読み取れないのだ。つまり、この少女の存在とその在りようは完全に無視されていた。

火傷や怪我で極度の苦痛に耐えている負傷者が、少女に関心を向けられないのは理解できる。しかし、少女のすぐ右の白シャツの人物がその典型だが、その着衣から深刻なダメージが窺えない人々にさえ、少女への関心が全く読み取れないのはどうしてか。ひとまずは命の危機を脱した、深刻なダメージを負っていない人々にさえ、少女の異常な在りようへの反応が見られないのは何故なのか。

僕はここで、ナチス・ドイツの強制収容所を生き延び、『夜と霧』を著した精神科医:ヴィクトール・E・フランクルの言葉を思い出す。

“異常な状況に直面した場合には、異常な反応を示すのが正常な人間の在り方なのです”

“被収容者はほんの数日のうちに極度のアパシー(外界への無感覚、無関心)に陥り、自分の周りでどれだけ悲惨な事が起っても、関心を向けなくなりました”

ナチス・ドイツの強制収容所とそこでの虐殺は、広島・長崎と並び、第二次大戦における典型的なホロコーストとして語られる。その悲劇を経験した人物の言葉を借りるなら、この写真が写し出す光景をこのように分析できるかもしれない。

“少女以外の人物は皆、被爆のショックで極度のアパシーに陥ってしまっていた。一方この少女は、弟が焼け死ぬという異常な事態を前にして、その弟を抱きかかえ、絶叫しながら意識を呼び覚まそうと異常な跳躍を繰り返す、正常な人物としてそこに存在していた”

とすれば、この少女とその姿を捉えた写真には、次のような位置づけが可能だろう。

「この少女は、被爆のショックで正常な人間性を解除されてしまった人々の中、正常な人間の在りようを保つことの出来た唯一の人間だった」と。

「この少女が不自然に見えるという事こそが、実は最も異常な事態だったのだ」と。

アウシュビッツにおいてさえ、フランクルによれば、人々がアパシーに陥るのに数日を要した。一方、この写真の人々が写されたのは、原爆投下のおよそ二時間半後である。戦時下ではあっても、日常を普通の人間性で過ごしていた人々が、たった二時間半でアパシーに陥ったのだ。その中で正常な人間性を保つには、焼け死んだ弟を抱きかかえながら絶叫し、空しい跳躍を繰り返さなければならなかった。

核兵器は恐ろしい。その熱線も、爆風も、放射線も。それらはいずれも、一瞬であまたの人々の命を奪い、あらゆるものを破壊する。しかし核兵器が破壊するのはそれだけではない。それは正常な人間から、その人間性も一瞬のうちに奪うのだ。そうしたことを、我々は決して忘れてはならない。

最後に、ふと気づいたことを言っておきたい。世界で最初に被爆者とその惨状を写したこの写真は、二枚目との関連から、カメラマンの関心の中心が警察官とそれを取り巻く人々であったとの印象を与える。しかし、その人々は右に偏りすぎている。彼らをメインで写したいのであれば、レンズはもっと右を向いている必要がある。

もしかしたらこの写真を撮影した松重氏は、手にしたカメラをこの少女に向けていたのではなかったか。

松重氏は爆心地から2.7キロ離れた自宅の便所で被爆したため、熱線も爆風も免れた。ほぼ無傷の状態で、この写真の手前側から奥の方に向かおうとしていた。つまり、写真に写る被爆者とは、その行動もマインドも逆方向だったと言える。

そうした状況にあった報道カメラマンが、眼前の光景の中で最もやかましく、最も奇怪で、最も躍動的な人物から関心を逸らした写真を撮ろうとするだろうか。むしろ、そうした人物をこそ撮ろうとするのではないだろうか。

この時の松重氏が、今僕がここで述べたようなことを念頭に置いていたはずはない。しかし、もし彼がその腰に提げていたカメラのレンズをこの少女に向けていたのだとすれば、世界で最初に被爆者を写したこの写真がとらえたものが何だったのか、我々はもう一度問い直す必要がある。

それは、熱線の残忍さでも、爆風の無慈悲さでもなかったのかもしれない。一瞬にして奪われてしまった人間性、そうした事の恐ろしさこそが、この惨劇の中でただ一人人間的であり得た少女を中心として写し出されていたのかも知れないのだ。