1.おいたち

おいたち

私は1936年12月6日、父・多市(たいち)と母・タツヨの長男として生まれました。年子の弟がいました。父は私が6歳の時に病気で他界しており、母が洋服の仕立をして生活をしていました。父はかなり財産を残していたようで、まわりの人々が窮乏生活を送っていた戦時下にあっても、我が家は家族3人が比較的余裕のある暮らしをしていました。原爆が投下された当時、私は9歳で袋町国民学校(現・袋町小学校)4年生、弟の幸生(ゆきお)は8歳で3年生でした。

母

弟

家は元々、元安川東側の川沿いの大手町5丁目(現・大手町3丁目)にありました。現在の平和大通りの平和大橋東詰あたりです。一階の道路側が母の経営する洋服屋、一階奥と二階が自宅で、かなり大きな家屋でした。母は優しい人で、忙しい中でも弟と私の手を引いて、家の前を流れる元安川でボートに乗せてくれたことも一度や二度ではありませんでした。私と弟はよくこの川で泳いだものです。現在原爆ドームになっている産業奨励館あたりまで泳いで、下から当時モダンだったこの建物を見ていました。

ところが原爆の数ヶ月前に建物疎開で立ち退きになり、同じ大手町の6丁目(現・大手町3丁目)に引っ越しました。建物疎開というのは、主要な建物の周辺部を空き地にしたり、道路の幅を広げたりして、空襲の時に延焼を最小限に食い止めるために防火帯を作る作業です。広島では1944年11月から始まり、原爆投下の直前、8月1日からは第6次建物疎開が市内各所で大規模に実施されました。動員されていたのは、地元の隣組、郊外の町村から動員された国民義勇隊、地元の中学生、女学生でした。原爆によって、動員されていた学徒約6,000人が亡くなっています。自宅が建物疎開の対象になったとしても、拒否をすることなど許されない時代でした。国民の生命、生活すべては、「お国のため」と教えられていました。私は生まれ育った自分の家が倒される様を、目の前で見ていました。今でもその光景を鮮明に覚えています。まず太いロープを二カ所の柱にくくりつけ、その二本のロープを数十人で引っ張るのです。かなり頑丈な家でしたが、あっけなく倒れてしまいました。

被爆前の広島市街図

被爆前の広島市街図

 引っ越した先の家は爆心地から約600mのところにある白神社の近くでした。新しい家の二階には金山三郎さん(韓国名:キム・名前は不明)という40歳くらいの朝鮮半島出身者が間借りをしていました。彼は軍靴工場で働いていました。父親がいなかったので、弟も私も彼になついていて、かわいがってもらいました。二人に靴を作ってくれたこともありました。彼がどのような経緯で日本に来たのか、どうして私の家に間借りしていたのか、そういった事情は9歳だった私には分かりません。

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