友田典弘 Tsunehiro Tomoda

2つの戦争を生き延びて

4.朝鮮戦争のただ中に

朝鮮戦争

 第二次大戦後、米ソ間の合意により、38度線を境に北をソ連が、南をアメリカが統治していました。その後アメリカを後ろ盾にし、1948年8月15日に南に大韓民国が、9月9日には北に朝鮮民主主義人民共和国が建国されました。武力で半島を統一しようとする北朝鮮の人民軍が、1950年6月25日、当時国境線とされていた38度線を越えて突然攻撃を開始したことから、韓国軍との間で戦争が勃発しました。人民軍の急襲に対して、韓国軍とアメリカ駐留軍は何の備えもしておらず、敗走するばかりでした。人民軍は、南進を始めた2日目には早くもソウル近郊まで侵攻してきました。ソウルの市内を東西に流れる漢江(ハンガン)より北側に住む市民たちは、迫ってくる人民軍から逃げるため大混乱に陥りました。

 6月28日の未明、私がその頃ネグラにしていたノリャンジン市場の近くにあった漢江大橋が突然爆破されたのです。この橋は漢江の両側を結ぶ大動脈だったのです。後で聞いた話では、韓国軍が人民軍の侵攻を阻止するためにダイナマイトを仕掛け爆破したそうです。爆破された時、橋の上には南側に逃げようとしていたソウル市民約4,000人がいて、そのうち約800人は亡くなったそうです。当時の韓国大統領李承晩と政府要人は、すでにソウルを脱出していました。

 私はノリャンジン市場で「かます」にくるまって寝ていたので、爆破の轟音と、市場の建物の激しい揺れで、驚いて目が覚めました。目の前では、漢江の北側から逃げてきて、辛うじて爆破を免れた人々が逃げ惑っていました。私はいったい何が起こったのかわからないままにその人たちの後について、とにかく山の方角に逃げました。夜が明け、逃げ込んだ山から見下ろすと、橋の向こうには何十台もの戦車が並んでいました。この爆破事件は朝鮮戦争の発端として韓国の人々の記憶に残っています。その日のうちにソウルは陥落し、人民軍は南進を続けました。数日後には、人民軍が爆破された橋の代わりに、ゴムボートを横向きにして川の上に並べ、その上に板を敷き臨時の橋を作って漢江を渡っていく光景も見ました。人間だけではなく、戦車もその上を渡ることができ、見たこともないようなその光景にほんとうに唖然としました。首都を守るために残された韓国軍と人民軍の砲弾が目の前を飛び交い、壮絶な市街戦となりました。むごい光景もたくさん見ました。9月の初旬には、釜山など朝鮮半島の南端の一部都市を除く全域を人民軍が掌握しました。

 あるとき、浮浪児仲間と人民軍の野営テントに物乞いに行きました。そこで北朝鮮の兵士から、「北にくれば食べ物にも困らないし、学校にも行けるよ。一緒に行かないか。」と誘われました。私は毎日が空腹との闘いだったので、毎日お腹いっぱいご飯が食べられるなら北に行ってみようかという気持ちになりました。ところが一緒にいた友達が、兵士たちがまともな靴も履いていないのを見て、そんな話を信じるなと言ってくれて思いとどまりました。ご飯も茶碗の上は白米でしたが、その下は麦でした。兵士の士気をあげるために表面だけでも白米にしていたのでしょうか。もしあの時北に行っていたら、二度と日本に帰ってくることはできなかったでしょう。

 9月15日には、体制を立て直したマッカーサー率いる国連軍と、マッカーサーの指揮下に入った韓国軍が、半島の中央部に位置する仁川(インチョン)に上陸し、人民軍を分断する作戦に出ました。南側に取り残された人民軍は、釜山に辛うじてとどまっていた国連軍の南側からの攻撃と、仁川に上陸した北側からの攻撃に挟まれ、敗走していきました。国連軍・韓国軍は、北へも進軍し、10月19日には平壌を占領し、その後中国との国境を流れる鴨緑江(おうりょくこう)にまで達しました。人民軍は中国に助けを求め、中国は10月25日、義勇兵の大部隊を編成し鴨緑江を渡らせ参戦したのです。

 翌年1月4日には、ソウルが再び激しい戦闘の場になりました。砲撃が激しくなる中、私は一人でソウルの南にある水原(スウォン)という町に命からがら避難しました。その途中、私が池の周りの堤防を歩いていると、正面の山影からいきなりアメリカ軍の戦闘機が現れ、地表ぎりぎりに急降下し機銃掃射して、再び急上昇していきました。見るとすぐ前の池に人民軍の兵士二人が死んで浮かんでいました。私は隠れる場所もない堤防の上で、アメリカ兵の顔が見える距離にいました。掃射を受けなかったのは、汚い格好をした子どもだったからでしょう。水原には、ソウルで激しい戦闘があった時、二度避難しました。

 ある冬、足を骨折し、市場で「かます」にくるまって寝ていたら、米軍の兵士に見つかり、基地の病院に連れて行かれました。それはもう広島の原爆以来一度も味わったことのなかった快適な生活でした。シラミだらけの汚い服はきれいに洗ってくれましたし、新しい服や靴もくれました。ふかふかのベッドでお腹いっぱいご飯も食べました。しかし一ヶ月ほどで治療は終わり退院すると、また元の路上生活に戻らねばなりませんでした。行く当てもなく、汝矣島(ヨイド)という米軍が駐留しているところで、昼間は兵士の靴磨きをしたり、食堂の手伝いをしたりして食いつなぎながら、夜は戦争で住人がいなくなった空き家や人の家の前などで寝ていました。ヨイドというのはソウルを流れる漢江の中州で、日本統治時代に軍用飛行場が建設され、戦後は米軍基地がおかれていました。そこはソウルの水路・陸路・空路の接点でもありました。そんな暮らしでも同じように戦争で親を失った孤児たちと仲良くなり、それなりに楽しく暮らしていました。

 その後、人民軍・中国義勇軍と国連軍・韓国軍との激しい戦闘は、38度線を挟んで膠着状態が続きました。3年続いた朝鮮戦争は1953年7月27日、ようやく両陣営が休戦に合意し、朝鮮半島全土を荒廃させた後、終わりました。私は17歳になっていました。

望郷

夜間高校に通っていたころ

夜間高校に通っていたころ

 路上でお互い助け合って生活していた孤児仲間であっても、私は自分が日本人であることを誰にも言いませんでした。日本では終戦記念日になっている8月15日は、韓国では解放記念日で、日本の植民地支配から解放されたことを国中で祝います。日本では初代総理大臣として教えられる伊藤博文は、韓国では侵略者と教えられています。伊藤博文を暗殺した安重根(アン・ジュングン)は韓国では英雄なのです。映画を言えば、反日の映画ばかりです。韓国の人々の中には日本の植民地時代に虐げられた経験が生々しく、誰もが日本人を蔑んで見ていました。何かの拍子に日本人だとばれると「チョッパリ」「ウェノム」などと蔑称で呼ばれたり、「日本に帰れ!」と言われ、喧嘩になりました。韓国の喧嘩というのは殴り合いではなく、頭突きです。負けるまいと頭突きの練習もしました。「チョッパリ」というのは、豚足のことで、日本人が下駄や足袋を履いている様が豚の足の形に似ているから、そう呼ばれていました。「ウェノム」というのは漢字で「倭奴」と書き、文字通り「日本のやつ」という日本人を罵倒するときの言葉です。日本語もすっかり忘れて、「おはよう」と「さよなら」の二つの言葉しか話せませんでしたが、それでも自分は日本人だと常に意識していましたので、日本人としてこのような言葉を聞くことは、ほんとに悔しく辛いことでした。

パン屋で働いていたころ

パン屋で働いていたころ

 戦争が終わる前から、私はパン製造店に住み込みで働き始めました。夜間の工業高校に入り勉強もしました。生活が安定し始めた20歳のころから、だんだん望郷の念が頭をもたげ始めました。政府機関やソウル市庁に赴き、何度も帰国を求めましたが、私が日本人であると証明する術もなく、取り合ってはもらえませんでした。日韓に国交もありませんでした。私を韓国に連れてきてくれた金山さんも探しましたが、どうしても見つかりませんでした。この時にはまだ金山さんが北へ行ったことを知らなかったのです。後で、戦争が始まる前に親子三人で、彼のお母さんがおられる黄海道(ファンヘド)にある、ソウルから船でそう遠くない町に引っ越したと聞きました。しかし、その町は38度線の北側にあるため、金山さんたちはもう二度とお兄さんのいるソウルに来ることはかなわなくなりました。どうされているのかと今も感謝の念とともに思い出します。もう一度会って、お礼が言いたかったです。

 どんなに自分が日本人だと言っても、それを証明することができません。しかも日本人であるということを誰にも打ち明けることすらできないのです。自暴自棄になったこともありました。三度自殺を試みましたが、いずれも未遂に終わりました。三度目は20歳の時で、パン屋で腕に包丁を突き立てました。血がパーと高く吹き上がりました。今でもその時の傷は残っています。悲しい時にいつも思い出していたのは母のことでした。原爆の後の混乱の中で、私自身も幼く、母をちゃんと探してあげられなかった、もしかしたら母はどこかで生きているかもしれないと思うと、日本に帰って母を探したいという思いがますます強くなるのでした。ほんとは日本人なのに、誰も日本人と認めてくれない。もどかしい思いを理解してもらえず、希望も失いかけていました。

自殺しようと包丁を突き立てた痕

自殺しようと包丁を突き立てた痕

 そんな頃でした。ぱったりヤン・ポンニョさんと再会したのです。ある夏の日、いつものようにパンを焼いていました。窓を開けていたので、たまたま通りがかったヤンさんが、私に似た人がいるなと、パン屋に入ってこられたのです。ヤンさんは、私が突然家を出てしまってからずっと心配してくださっていたそうです。「なんで家を出たんや?ずっと心配してたんだよ。」と言ってくださいました。仕事中でゆっくり話もできず、また同僚には日本人であるということも内緒にしていたこともあり、口ごもっていると、「今日は何時まで仕事なんや?」と聞かれ、私が仕事を終えるころ再び来てくれました。驚いたことにヤンさんは私の職場であるパン屋のすぐ近くの時計屋で働いておられたのです。それは広いソウルの中で、本当に奇跡的なことでした。

 私が日本に帰りたいという話をしましたら、「手伝ってあげましょう。」と言ってくださいました。日本統治時代に日本語で教育を受けていたヤンさんは、日本語で広島市長や警察、袋町小学校などに何度も手紙を書いてくださったのです。30通ほど書いてくださったと聞いています。中には「東京警察署長様」という宛先のものまでありました。手紙には大人になった私の写真と、家があった袋町あたりの地図を入れていました。その手紙の一通がある全国紙に掲載されたことで事態が少しずつ動き出しました。祖母が、私の写真を見て「典弘に違いない」と名乗り出てくれたそうです。私はずっと、祖母も原爆で亡くなったとばかり思っていました。そして広島市役所がソウル市役所に私の戸籍謄本を送ってくれたのです。

 ある日、パン屋にソウル市役所の職員3人がやってきて、「友田というものはおるか?」と言うので、何事かとびくびくしながらも、自分が友田だと名乗りました。私は、その日のうちにパン屋を辞めてソウル市役所の警備員室で帰国を待つことになりました。こうして私はようやく日本人であると認められたのです。帰国手続きには一ヶ月かかりました。その間、市役所の職員がソウル観光に連れて行ってくれるなど、特別待遇を受けました。広島の当時の浜井信三市長の協力もあり、1960年6月18日、24歳の時に日本に帰ってきました。雲一つないよく晴れた日でした。プロペラ機に乗ると、9歳で韓国に連れてこられてから15年間の様々なことが走馬燈のように去来し、去りゆく金浦空港も、見送りに来ていた市役所の職員の姿も、涙で何も見えませんでした。

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