友田典弘 Tsunehiro Tomoda

2つの戦争を生き延びて

5.帰国、そして原爆後遺症

帰国

 羽田空港には広島市役所の職員が迎えに来ておられ、一緒に夜行に乗って広島に帰ってきました。「ひろしまぁ~。ひろしまぁ~。」という駅のアナウンスを聞いたときは、なんとも表現のしようがない気持ちで胸がいっぱいでした。町はすっかり変わっていました。駅の前にはビルもたくさん建ち、車も走っていました。町はきれいに整備され、原爆が落とされた町とは思えないほどでした。15年前広島駅を発った時には、原爆投下で町にあふれていたガレキさえ枕崎台風によって洗い流され、真っ平らで瀬戸内海の島々まで見渡すことができました。市役所に着くと、大勢のマスコミとともに祖母も待ってくれていました。そこで被爆者手帳を発行してもらい、母と弟は未だ行方不明であることを知らされました。「被爆者手帳は必要ないです。」と言ったら、浜井市長が、「持っていたら必ず役に立つ時がくるから持っていなさい。」と言われました。その後、原爆の後遺症などで病院通いをすることになり、市長の言われるように、もらっておいて本当によかったです。

奇跡的に生き延びた三人が袋町小学校地下で取材を受ける

 夢にまで見た故郷広島でしたが、マスコミに取り上げられたことで、好奇の目にもさらされることになりました。浜井市長が身元引受人になってくださり、市長の紹介で、羊羹屋で住み込みとして働くことになりました。ご家族は夫婦と小学5年生の男の子で、みんなとても優しくしてくださいました。奥さんは、毎日子どもと私を食卓に座らせて日本語を教えてくれました。一年くらいそこで働きましたが、職場の人とも言葉の壁があってなかなか打ち解けることもできませんでした。韓国に渡った時、最初の1年ほどは、黙って周りの人の言うことを聞いていて、その後は次第に自分で言いたいことが言えるようになっていったのですが、日本語を学びなおすことはやはり難しかったです。なかなか上手に話せるようにはなりませんでした。やはり子どもは言語の習得が早いのかもしれません。韓国では自分は日本人だと思っていましたが、日本に帰ってきても日本語が話せず、外国にいるように感じたものです。

 韓国のパン屋で働いていた時、兄弟のように仲良くしていた同僚のお兄さんが、大阪に住んでいると聞いていたので、その人を頼って1962年に在日韓国人が多く住む大阪に出てきました。その人の伝手で大阪に住む多くの成功している韓国人と知り合うことができました。仕事もその人脈で得ることができました。広島にいた時は住み込みで月9,000円ほどもらっていましたが、大阪では同じ住み込みでも12,000円もらえました。少し落ち着くと小さなアパートに住み、ガソリンスタンドや電気釜の取っ手を作る町工場などで働きました。いつもお金がなく、暮らしは大変でしたが、言葉が通じる在日の人たちに囲まれて生活する方が、心安らぎました。大阪の韓国人は、みんなお互いに助け合い、困っていると親身になって世話をしてくれるのです。免許も取っていないのにバイクをプレゼントしてくれるような豪傑な人もいました。

被爆の影

被爆の時にガラスが刺さった右足

被爆の時にガラスが刺さった右足

被爆の時に右足にガラスが刺さったのですが、その破片は、その後もずっと足の筋肉の中にとどまっていました。痛みはありませんでしたが、触るとゴリゴリしたものがあるという違和感があり、ずっと気になっていました。20歳のころ、自分でその破片を少しずつ押し出しているとポロッと出てきました。また被爆時に壁に腰を強く打ち付けましたが、医者の診断によると、どうやらその時に背骨がゆがんだようで、今に至るまで腰痛に悩まされています。今も病院通いをしています。また原爆後遺症と思われる症状にも悩まされました。1966年、30歳の時に知人の紹介で結婚しましたが、被爆からもう20年以上も経っているというのに、そのころから突然歯茎から出血し、体調もすぐれず、朝も起きられなくなりました。被爆者が「原爆ブラブラ病」と言う後遺症に悩まされていたと聞いていましたが、その症状と全く同じでした。そのせいで仕事ができなくなったのです。働けるのは月のうち10日くらいでした。ソウルで路上生活をしていた頃、一度大量に血を吐き、高熱を出したことがありました。その頃は栄養失調だからかと思っていましたが、今はそれも被爆の影響だったのではないかと思っています。

子どもたちを連れて広島訪問

子どもたちを連れて広島訪問

気落ちする私をずっと支えてくれたのは妻・加世子でした。ソウルにいるときに、広島には75年草木も生えないとか、被爆者は子どもも産めない、産んでも子どもに障害が出るなどという噂を聞いていましたので、結婚の翌年に長男が元気に誕生した時には、ほんとにうれしかったです。しかしこの後遺症を克服するのに、10年ほどかかりました。その後転職したステンレス加工会社で働き続け、4男1女の子どもにも恵まれました。9歳の時に原爆で突然家族を奪われ、一人で生きてきましたので、とにかく温かい家庭を持つというのが子どもの頃からの夢でした。この2DKの小さな市営住宅で、いつも貧しかったのですが、妻と5人の子どもに恵まれ、ほんとうに幸せな日々でした。しかし妻の加世子は75歳で急逝しました。一度は韓国に連れて行きたかったです。

ヤンさんを探して

 仕事と家庭が落ち着いてから、命の恩人とも言えるヤンさんを探しに5回訪韓しました。1995年3月、5度目の訪韓の時に現地のテレビ番組、ソウル文化放送局の「メイキング・ザ・モーニング」に出演する機会を得ました。その番組の中で私は「命の恩人を探しています。」と訴えました。番組が終わったあと、テレビ局に一本の電話がかかってきました。それはヤンさんの長女キム・チェスキさんからでした。彼女はすぐにテレビ局に駆けつけてくれ、35年ぶりに再会することができたのです。会うなり肩を抱き合い再会を喜び合いました。残念なことにヤンさんは、その18年前に63歳で病気で亡くなっておられました。娘さんからヤンさんが死ぬ間際まで私のことを心配していたと聞きました。あれだけお世話になっていながら何のお返しもすることができなかったこと、ヤンさんに一度でも妻を合わせてあげたかったこと、悔やんでも悔やみきれません。娘さんは悔しがる私を見て、「これから韓国の家族と日本の家族が仲良くすることが母の望みですよ。」と言ってくださいました。

私はどんなに苦しい境遇にある時も、自らもその日の食べ物もない中で、私を助けて下さった金山さんやヤンさんのような優しい人がいたからこそ今まで生きて来られました。韓国は私にとって第二の故郷です。そして金山さん、ヤンさんは韓国の父母です。

【文責】
2017年8月~9月に行なったご本人への直接取材、電話取材に基づいて作成しました。
この文章の著作権はHIROSHIMA SPEAKS OUTにあります。

【参考文献】
・岩波新書 「ひとりひとりの戦争」
・中国新聞 「地下室の奇跡 上・下」2014年7月21日・28日
・広島創価学会HP 「自分らしく生きて」
・毎日新聞 「二度追われた居場所」2014年8月13日
・ヒロシマ・ピース・サイト
・Wikipedia 朝鮮戦争
・Wikipedia 漢江大橋爆破事件

【協力】
 塩川慶子 

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