1. おいたち

私は1934年7月21日、父濵井次郎、母イトヨの3番目の子供として生まれました。私の上には、3歳上の姉弘子と2歳上の兄玉三がおり、5人家族でした。家は現在平和公園になっている中島本町にありました。(現・中区中島町、爆心地から180メートル)父はここで濵井理髪館・理容研究所を営んでいました。住み込みで働く人も4人いました。また近くの理容専門学校でも教えていました。

父も母もおしゃれな人でした。父は毎日モーニングの縦縞のズボンを履き、白いワイシャツに蝶ネクタイを締めて仕事をしていました。また当時では誰も使っていなかった電気バリカンを試用して仲間と全国に広めるなどの活動をしていました。かなり時代の先端をいっていたと思います。しかし私の中の父の記憶といえば、仲間と毎日のように2階でお酒を飲んでいたことです。時々、専門学校生が酔って寝ている父を呼びに来たことを覚えています。母はハワイ生まれで、6年生の時に両親と共に日本に戻ってきたそうで、日本語と英語が話せました。まわりの女性達がみんな地味なモンペを着ていた当時でも、鮮やかな青色の花柄の日傘を差しワンピースを着て買い物に出かけるような人でした。

私は6歳になると、本来は中島国民学校へ入学すべきところを、家から近い本川国民学校に越境入学しました。兄弟も、近所の子供達もみんなそうしていました。中島国民学校は少し遠いところにあったからでしょう。学校に入っても喘息のために一学期のうち1ヶ月は休むような病弱な子供でした。しかし、好奇心は旺盛でやんちゃでした。学校でもいたずらをしたり、授業をサボったりしてよく先生に叱られました。体育の授業を休んで翌日の午前中ずっとバケツを持って立たされたこともありました。また珍しいことはなんでも自分でやってみたくなるような子供でした。兄や姉が嫌がるようなおつかいも喜んで行っていました。ある日、母に言われ瓶を持って醤油を買いに行きました。当時、醤油は樽から瓶に小分けして売っていました。店主がゴムのチューブのような物で樽から吸い上げ瓶に流し入れるのですが、どうしてもやってみたくて店主にお願いしてやらせてもらいました。すると誤ってたくさん醤油を飲んでしまい、気分が悪くなったこともありました。また中島本町は広島随一の歓楽街で、近所にキャバレーもありました。昼間誰もいないお店の中に入り、当時は珍しかったふかふかのソファで寝込んでしまったこともありました。近所の美容院の玄関ドアに石を投げ、ガラスを割ってしまい、父にこっぴどく叱られ、一緒に謝りに行ったこともありました。今思い出すのは、子供時代の楽しい思い出ばかりです。

戦況が厳しくなると、都市部に住む小学3年生以上の児童は郊外の親戚の家か(縁故疎開)、親戚がいない子は先生に付き添われて地方の寺社に疎開する(集団疎開)ことになりました。私は廿日市の宮内に叔母(父の弟完司の妻貞子)の実家があり、その叔母がお産のために里帰りしていたこともあり、1945年4月1日からその家に疎開させてもらうことになりました。そこの家族は叔母の両親と、叔母を含めて9人の子供がいました。そこへ私が加わったのですが、実子との分け隔てもせず、我が子と同じように接してくれました。家族の人数が多いので、本宅から50メートルほど離れたところにもう一軒家を借りていました。私は本川国民学校から宮内国民学校へ編入し、5年生になりました。

廿日市では朝の8時から夕方の5時まで停電していました。またこの家には電灯が裸電球一つしか無く、暗くなると家族みんなが一つのところに集まって過ごし、食事などで移動する時にはみんなでぞろぞろそと電球についていくという生活でした。広島の自宅では各部屋に電灯がありとても便利な生活をしていたので、その不便さに辟易しました。夜になると借りていた離れの家で寝るように言われていましたが、夜道が真っ暗で怖いので本宅で眠ってしまうと、誰かが背負って離れにつれて行ってくれました。トイレが外にあったことも嫌でした。電灯もなく真っ暗な外に出るのが怖くて、夜中におしっこがしたくても我慢してしょっちゅうおねしょをしていました。その度に叔母に怒られたものです。また水は茶色く濁った井戸水を汲んで使っていました。自宅では水道がきていましたので、いつでも栓をひねるときれいな水が出ていました。土曜日には電車で中島本町の家に帰り、日曜日にはまた廿日市に戻るという生活をしていましたが、自宅での生活が恋しくて、空襲で死んでもいいから家に帰りたいと親を困らせたものです。よかったことは、廿日市に来て喘息がすっかり治癒していたことです。空気がきれいだったからかもしれません。気づけば学校を一度も休むことなく皆勤賞をもらうほど元気になっていました。

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