濵井 德三 Tokuso Hamai

失った命は二度とかえらない

2. 原爆投下

原爆投下の前日、8月5日に両親と姉が朝の6時半くらいにいきなり私が疎開していた宮内の家に来てくれました。そしてみんなで同じ廿日市の原村に疎開していた祖母のところまで山を一つ超えて会いに行きました。兄は学徒動員で来られなかったそうです。祖母は自分で育てたカボチャを炊いてくれ、みんなでそれを食べました。おばあちゃんが、「今日はここで泊まれ。」と言ったのですが、「玉三が建物疎開から帰ってくるから帰ってやらんといけん。」と言って、夕方4時頃、両親と姉は広島へ帰って行きました。そしてそれが家族を見た最後になってしまいました。青色の日傘をさした母の後ろ姿は今でも覚えています。

当時、夏休みといっても小学生は毎日学校へ行って校庭を耕して野菜を植えたり水をやったりしていました。8月6日の朝も、私たち小学生は学校へ行っていました。先生から竹ぼうきで校庭を掃くように言われていましたが、やんちゃな私はそれを刀にして友達とチャンバラごっこをしていました。すると突然あたり一帯がピカッと光に包まれ、続いて地響きが起こりました。私は日頃から訓練を受けているように、両手の指で目と耳を塞ぎその場にうずくまりました。しばらくして顔をあげると、雲が広島市からどんどん広がって廿日市の上空にまでやってくるのが見えました。朝から雲一つない青空だったので、それは不思議な光景でした。校舎の窓ガラスには、空襲に備えて×字にテープが貼ってあったのですが、すべて割れて、あたりに飛び散っていました。校舎の中に入ると、教室は傾き、粉々になった窓ガラスが散乱していました。校舎内にいた人達は壊れた天井から落ちてきた埃で全身灰色でした。先生は状況が分からないので、子供達に家に帰るように言われました。叔母の弟の一人肇さんが、自転車で13キロ離れた広島市まで見に行ってくれましたが、己斐まで行って市内に入れないので帰ってきたと言っていました。広島がどうなっているのか聞いても何も答えてくれませんでした。

夜になって兄の友人の古沢さんが私の疎開先に訪ねてきてくれて、兄が亡くなったことを知らせてくれました。古沢さんの親戚が私の疎開先の近くにあったために立ち寄ってくれたのです。兄は朝から雑魚場町(現・中区国泰寺町、爆心地から1.1キロ)に建物疎開のために動員されていたそうです。建物疎開とは、重要施設の周辺を空き地にしたり、道路の幅を広げたりして、空襲の時の延焼を最小限にするために防火帯を作ることです。その夜は廿日市からも広島方面の空がまっ赤に染まっているのが見えました。

翌朝学校へ行くと、校庭に教室の机や椅子が山のように積み上げられていました。校舎に入ると各教室にはムシロが敷いてあり大勢の火傷やケガをした人が寝かされていました。その後も次々と大八車や馬車に乗せられたケガ人が運び込まれてきました。校舎の後ろにゴミの焼却炉があったのですが、そこでは次々と使用済みの包帯や布が投げ込まれていました。6年生と高等科1,2年生は看護の手伝いをしていましたが、5年生だった私たちは何もすることがありませんでした。学校では町内会の婦人会の人たちが白米のおにぎりを握って炊き出しをしていました。それまでおかゆに麦が浮いたようなご飯しか食べられなかったので、白米を見て、いったいどこにこんな白い米が隠されていたんだろうとびっくりしました。

宮内地区は、偶然にも私の家があった中島本町周辺地区の緊急避難先に指定されていました。中島本町は爆心地のほぼ直下でしたから、運ばれてきた人たちはみな瀕死の重傷を負っていました。私の記憶では学校に運び込まれた人々の中で生きて出て行った人は一人もいませんでした。そのころ廿日市には集落ごとに焼き場があり、連れてこられた被災者が亡くなるとそれらの焼き場まで運ばれ焼かれていました。その後も毎日毎日村の人たちが背中に藁や薪をしょって焼き場に行くのを見ました。私は広島市内で何が起こったのか分からず、両親や姉がどうなったのかも分からず、とても不安な気持ちでした。

後になって知ることになるのですが、この日完司叔父さんが両親を探しに行ってくれたそうです。叔父さんは己斐の親戚の家に自転車をおいて歩いて市内に入り、私の自宅まで行って、業務用のハサミ十数本、皿時計、手の平に載るほどの遺骨を持って帰っていたのです。家族の他の人たちには市内の状況などを話していたようですが、私には誰も教えてくれませんでした。持ち帰った物も押し入れに隠していました。私は実際に自分の目で見るまでは信じないような性格だったため、先に遺品だけを見せるより、市内に連れて行って納得させてから見せようということになったようです。

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