濵井 德三 Tokuso Hamai

失った命は二度とかえらない

3. 両親・姉を探しに市内へ

姉弘子 (1943)

8日朝、学校へ行こうとすると、叔母の母ツナヨが「広島に行ってみろ。」と言いました。私は肇さんの自転車の後ろに乗せてもらって約13キロ離れた広島まで行くことになりました。広島市中心部への西の入口である己斐まで行くと、見渡す限り真っ黒の焼け野原で、道路にはガレキが積もっていてとても自転車で進むことができそうにありませんでした。己斐の親戚に自転車を預けて肇さんと二人で歩くことにしました。広電の線路伝いに東へ、自宅がある中島本町を目指して歩きました。己斐から一つ目の山手川を渡ったところにある福島町まで来ると枕木はまだチョロチョロと炎をあげ、くすぶっていました。線路の周りには数え切れないほど死体がありました。

天満川にかかる天満橋(鉄橋)の線路の枕木の隙間からは、橋脚に引っかかり川を堰き止めんばかりにぎっしり川面を埋めつくした死体が見えました。不思議なことにどの死体も風船のように膨れあがっていました。さらに東に進み、中島本町に入る手前の本川にかかる本川橋まで来ると橋が落ちてしまっていて通れませんでした。仕方なく少し戻り北へ向かい、東に折れてT字の相生橋を渡り中島本町に入りました。この相生橋は形が独特なので、上空から識別しやすく、原爆投下のターゲットになっていた橋です。

自宅のあった中島本町は、家々はなぎ倒され真っ黒に焼き尽くされ、ガレキの山と化していました。その上を歩きながら何とか自宅のあった場所まで辿り着きました。付近にあった10センチほどの木切れでガレキを掘っていると、店にあった理髪台が見えました。元の床から70センチくらいガレキに埋もれていました。また当時珍しかったタイルの床も見えました。ふと見ると、ガレキの中に父が使っていた机が黒く焼けているのが目に入りました。その引き出しが少し出ていて、中に4隅が焼け焦げ丸くなったノートが見えました。私たちがここに来るまでに生きた人には全く出会いませんでしたが、中島本町に入って3人の人を見かけました。その人たちも私たちと同じように家族を探しているのか、ガレキを木切れで掘り返していました。あたりはシーンとして何の音もしませんでした。驚いたことに普段見えたことがない似島が自宅のあったところから見えました。

それから姉が通っていた安田高等女学校(当時、西白島町)を目指すことにしました。当時安田女学校は広島城の北側にありました。再び相生橋を渡り、右に折れ、護国神社の境内を通り抜け、広島城をぐるっとまわって学校まで行きました。途中の逓信病院の周りにある大きく深い溝は、数え切れないほどの馬や兵士の膨れあがった死体で埋まっていました。学校に着くと男性が一人立っていたので、姉の消息を尋ねましたが、何も分からないと言われました。そこで姉が動員されていたはずの飛行機のプロペラ製造工場に行ってみることにしました。工兵橋を渡ったところで、朝、ツナヨおばあさんに作ってもらったお弁当を食べました。傍には無傷で軍服を着たまま亡くなっている死体が3体転がっていました。三体とも大きく膨れあがっていました。もうそのころには死体に慣れてしまっていて、気にもなりませんでした。また死体を引きずって火葬場へ行く兵士も見ましたが、それ以外に生きている人間をみることはありませんでした。その後、両親や姉を探すのを諦めて帰ることになり、西に向かって横川駅まで行き、国鉄の線路伝いに歩いて自転車を預けていた己斐まで戻りました。線路の脇には貨車が何両かひっくり返っているのが見えました。肇さんとは最初から最後まで一言も口をききませんでした。二人共ずっとおし黙っていました。結局姉はどこで亡くなったかも分からないままです。

己斐から再び自転車に乗って宮内まで戻りました。私たちが戻ると、ツナヨおばあさんが「どうだった?」と聞くので、私は「何もなくなってた。」と答えました。するとおばあさんは押し入れから皿時計と父のハサミと遺骨を出してきました。私が実際に自分の目で家の状態を見るまでは納得しないだろうからと、それまでは隠していたそうです。それまで泣くことはなかったのですが、遺品を見た途端、涙があふれワーと声を出して泣いてしまいました。それでも心のどこかで両親はまだどこかで生きているのではないかと思っていました。またおばあさんが、「こんなことなら(両親が)5日に来た時にお金をもらっとけばよかった。」とぼそっと言った言葉は、子供心を深く傷つけました。今でも忘れられません。

私は11歳の時に家族全員を失い孤児となりました。父は46歳、母は35歳、姉は14歳、安田女学校3年生、兄は13歳、修道中学1年生で亡くなりました。

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