濵井 德三 Tokuso Hamai

失った命は二度とかえらない

5. 理容師に

高校を卒業する時に、叔父が大学に行きたいなら行かせてあげるよと言ってくれましたが、私は祖父も父も叔父も理容師でしたから、漠然と自分も同じ理容師になるものだと思っていました。1952年高校卒業と同時に広島の理容専門学校に入学しました。

叔父から5月7日に理容師の国家試験があるから受けるように言われました。試験会場に行くと、監督をしている人達が、父をよく知っていて、「お父さんは大変じゃったね。」「あんたのお父さんには世話になったんよ。」と次々と声をかけてくれました。翌年からは、専門学校で2年勉強し、2年は実地で研修してからでないと試験は受けられないという制度になりましたが、幸いなことに、私が受けた年は簡単な学科テストと実技テストのみでした。

私は試験官が父の弟子たちで、その温情もあってだと思いますが、試験には無事合格しました。そして専門学校を1ヶ月で退学し、叔父の店で働き始めました。叔父は白島の逓信局の中で理髪店をしていました。この店も原爆で内部がかなり崩壊していましたが、被爆後1ヶ月もしないうちに部屋を片付け、理髪用の椅子一台と鏡を一枚入れて再開していました。当時は大きな郵便局の中には理髪店や売店などが入っていて従業員や一般の市民も利用することができました。私はそこで7年間ほど働きました。お客さんの中には顔にケロイドが残っている人も多く、ひげ剃りには神経を使いました。中にはまるでブドウの実がいくつも顔にのっているような人もいて、そのような人にはひげ剃りをすることができませんでした。

1960年、広島駅前にあった東郵便局(現・中央郵便局)内の理髪店を、そこで働いていた職員二人と共に引き継ぎ独立しました。客が絶えることはなく、当時、郵便局員の平均月給が12,000円ほどでしたが、私の店では一日でその三倍の36,000円ほどの収入がありました。郵便局には売り上げの1パーセントを支払う約束になっていましたから、かなり羽振りはよかったです。また山登りの仲間から保険代理店の仕事をしないかと勧められ、1971年から88歳の今に至るまで保険の仕事もしています。

1963年に結婚しました。2年後には長男が誕生し、その翌年には次男が誕生しました。私は1994年、店を閉じなければならなくなるまでそこで働きました。この年、霞ヶ関の郵政省で、職員が職務時間内に省内の理髪店へ髪を切りに行っていることが週刊紙に取り上げられ問題視されるようになりました。それがきっかけで郵便局内の理髪店は閉店することになったのです。私はちょうど60歳になっていたので、これを機に理容の仕事は辞めることにしました。

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