濵井 德三 Tokuso Hamai

失った命は二度とかえらない

6. 皿時計

1998年9月にお世話になっていた叔父が他界しました。優しくしてくれた叔父が亡くなったことで、私はとうとうひとりぼっちになってしまったんだと感じました。それまでも市内中心部に行くことがあれば、平和公園にある中島本町町民慰霊碑「平和の観音像」を訪れていましたが、叔父が亡くなった後、あらためて平和資料館に行ってみました。資料館の出口を出たところに来訪者用の記帳ノートが置いてあり、皿時計について書きました。これは原爆の翌日に叔父が持ち帰ってくれた物で、ススやホコリを払うと以前のきれいなままの姿に戻りました。被爆後しばらくは私の部屋の柱にかけていましたが、時計を見る度に子供時代のことを思い出して辛くなるので押し入れにしまっていました。家を出た後もそのまま叔父の家に保管されていました。

この皿時計はドイツ製で、父の店の鏡と鏡の間の壁にかけてあったものです。毎朝、学校へ行く前にネジを巻くのが私の仕事でした。また、「アメリカとは半日の時差がある。だから24時間戦わなければならない」という意味で、市役所から時計に貼るようにと13~24と書かれた紙が配られ、それを一つずつ切って1~12の数字の上部に米をつぶしてノリにして貼ったのも私でした。

記帳して数日して、突然資料館から時計を見せてほしいという電話がかかってきました。私は中島本町で拾った溶けた石とともに皿時計を資料館に持参し寄贈しました。当時資料館には8時15分で止まったままの時計が10個ほどあったそうです。今では70個に増えているそうです。その後、2001年に国立平和祈念館が完成した時に資料館で開催された企画展「よみがえる歴史の記憶 一瞬に消え去った爆心の町」に展示されました。

1991年7月28日から地元の中国新聞で、8回シリーズ「平和公園に眠る街 中島本町」が掲載され、その第4回(7月31日)に私の記事「二人の父 家業の理髪 叔父が鍛える」が載りました。それまで辛い話をしたくなかったので、被爆に関しては何も語ってきませんでした。この後同紙の「この人」欄にも載ったことで、反響は大変大きいものになりました。被爆証言をしてほしいという連絡や、逆に何も話すなと言う人もいました。実際に被爆証言を始めたのは2003年からでした。

Share