早志 百合子 Yuriko Hayashi
1. おいたち
私は父・山村湯一と母・政子の長女として1936年8月3日に生まれました。父と母は26歳年齢が離れていました。私は8歳年が離れた兄・辰男(1928年生まれ)と7歳下の弟・勝利(かつとし、1943年生まれ)の間に挟まれた唯一の女の子でした。勝利という名前は、太平洋戦争のただ中に生まれた男の子によく付けられた名前で、戦争に勝つという意味が込められていました。
家には家族に加えて、家や父の仕事のこと全般の世話をする執事のような役割をしてくれていた「岡本」という男性と、私が「こぶばぁば」と呼んでいた乳母がいました。「こぶばぁば」というのは、幼いころ身体が弱く、いつも彼女の背中に負ぶわれていて、お腹がすくと彼女が割烹着のポケットから小さく切った出汁昆布やイリコを出してくれていたので、私が勝手に呼んでいた名前です。
家は土手町(現・中区比治山町、爆心地から1.6km)にありました。父は土木建築の請負業を営んでいて、たくさんの日本人や朝鮮人の作業員を抱えていて、仕事の依頼が入ると作業員を手配していました。当時は朝鮮人に対する差別が激しい時代でしたが、父も母も一度も差別的なことを言ったりしたりすることはありませんでした。すべての従業員に同じように接していました。家庭はとても裕福でした。兄弟と年齢が離れていて女の子が一人だったためにほんとうにかわいがられていました。高価な着物も何枚も買ってくれていたし、立派なおひな様もこいのぼりもありました。
母は士族の出で、あまり家事や育児などはしませんでした。おしゃれでいつもきれいな着物を着ていました。当時、女性はモンペを着るように半ば強制されていましたが、近所の人が「非国民」などと陰口をたたこうと、決して着ませんでした。隣組単位で行われていた竹槍訓練や防火訓練にも出ませんでした。家では堂々と「鍋釜を供出させて弾を作るような国が、あのアメリカに勝てるわけがない。」などと発言し、どこで声がもれたのか、家に石を投げ込まれたこともありました。父もそんな母をたしなめることもありませんでした。今思えば、よく憲兵に連れて行かれなかったことです。漬け物を作るのは上手でした。我が家の広い台所の土間には、梅干しやらっきょうをはじめ様々な食材が漬け込まれた酒樽や醤油樽が並んでいました。
また両親は芝居を見に行くのが好きで、新天地にあった芝居小屋に幼い私を連れて行ってくれました。私はかわいい洋服や着物を着せてもらって、嫌がることもなく両親の間でじっと座って芝居を見ていたそうです。1940年の皇紀2600年の祝賀行事の時には、きれいに着付けやお化粧をしてもらって提灯を持って行列の先頭に立って土手町の大きい通りを練り歩きました。おしゃれをして出かけることが好きだったのでしょう。
父は隣組の世話役をしていて、竹槍訓練などにも熱心に参加していました。私も小さい竹槍を作ってもらって父について行き、「鬼畜米英、死ね!」などと叫んで、米兵に見立てた藁人形に向かって走って行き槍でつく練習をしたものでした。母が訓練に来ることはありませんでした。
私は生まれつき虚弱体質で、医者からも「この子は10歳までは生きられない。」と言われていたそうで、両親はとにかく私を溺愛していました。いたずらをしても怒られたことは一度もありませんでした。ある時、近所のお友達と振り袖をタンスから引っ張り出し、着て遊んでいました。そしてそのまま風呂場に行ってお湯が残った浴槽に入ったのです。絹の着物ですから生地は縮み、色落ちしてしまいました。高価な着物をダメにしてしまったのですが、怒られることはありませんでした。またひな段に飾ってあったおひな様の小さな下駄を履こうとして壊してしまったこともありました。それでも両親は、長生きできないと言われている娘にせめて楽しい思いをたくさんさせてやろうと思っていたのでしょう。