早志 百合子 Yuriko Hayashi

奇跡に生かされて

2. 太平洋戦争が始まる

1941年12月8日に海軍がハワイの真珠湾を奇襲攻撃して、日本はそれまでの中国大陸での戦争に加え、アメリカとの戦争に突入しました。私は5歳でした。この頃から次第に食べる物を調達することが困難になってきました。父は当時仕事をしていた三ッ星製菓に行ったときには、カンパンやビスケットを持って帰ってくれました。家の庭ではチャボをたくさん飼っていいましたので毎朝縁側の下に産んだ卵を取りに行くのは私の仕事でした。

1943年、6歳になって段原国民学校に入学したのですが、身体が弱く、ほとんど学校に通うことは出来ませんでした。朝礼があると必ずと言っていいほど貧血を起こし倒れていました。扁桃腺もよく腫れて、しょっちゅう40度を超す熱を出していました。ほとんど毎日のように近所の町医者に行っていました。学校で勉強したり、友達と遊んだりしたという記憶は全くありません。

兄は1944年に16歳の時に海軍飛行予科練習生(通称:予科練)に志願して家を出ました。学校の成績は優秀で、達筆でした。通っていた修道中学からは6人が予科練に志願し、新聞に記者会見をしている時の写真が掲載されました。

1945年の春になって特攻兵として鹿児島にいることが分かりました。母は私と弟を連れて広島駅から満員の汽車に乗って鹿児島まで会いに行きました。自宅には子供達の世話をしてくれる「こぶばぁば」がいたのに幼い子供を連れて鹿児島まで行ったのは、おそらく日本中のあちこちの町が空襲を受け、もし自分一人が鹿児島に行ってしまうと、それで生き別れになってしまうのではないかと恐れたからではないでしょうか。

広島から鹿児島まで今では新幹線で3時間もかかりませんが、当時は各駅で停車するし、一度止まるとしばらく動かなくなることもあり、どれほどの日数と時間がかかったのか思い出すこともできません。しかも満員でずっと立ちっぱなしでした。弟はまだ2歳になる前で、オムツをつけていましたが、オムツが濡れても、背中から下ろして換えてやることもできませんでした。母の絹の着物がピンク色に染まっていっていたことを今でも鮮明に覚えています。母は兄が神風特攻隊にいると知り、どんなことがあっても一目兄に会いたいと思ったのでしょう。兄がいる訓練場に着いても、もちろん面会は許されませんでした。何日も近くに宿を取り、毎日弟と私を宿において、面会を求めて訓練場に行っていました。しかし結局、会うことはかないませんでした。

本土への空襲は1944年に入ると激しくなってきました。東京や大阪、名古屋など大都市は次々と空襲を受けていました。広島も今に爆撃されるのではないかと、市民は大切な荷物や家具を田舎の親戚の家などに疎開させていました。ところが我が家ではなぜか何も疎開させることはありませんでした。

町内会でも京橋川沿いの土手に防空壕を掘りました。空襲警報が鳴る度に家族みんなで防空頭巾をかぶり壕に飛び込みました。1945年になると空襲は全国各地に及び、広島でも国民学校(小学校)3年生以上の児童で、田舎に親戚がいるものは個人的に疎開させ(縁故疎開)、その他の者は教師に引率されて田舎のお寺などに集団で疎開させる(集団疎開)ことになりました。しかし、私が病弱だったため、両親は1日でも長く一緒にいたいと願い疎開させませんでした。

空襲警報もしょっちゅう鳴っていました。警報が鳴るのはほとんどが夜で、敵機が広島上空に差しかかると市の西側と東側からサーチライトが光ります。敵機にうまく複数のサーチライトが交わったら対空砲で撃ち落とします。私は防空壕の中から、対空砲が命中し、敵機が1機燃えながら川に落ちていくのを見ました。

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