早志 百合子 Yuriko Hayashi

奇跡に生かされて

3. 8月6日

8月6日は、朝早くに警戒警報、すぐ続いて空襲警報が発令されました。私達は大急ぎで防空壕に避難していましたが、すぐに解除され家に戻ってきました。午前8時過ぎは、本来学校に向かっている時間でしたが、私は前日に母が縫ってくれた服を着て学校に行きたくて、母がボタンをつけてくれるのを待っていました。父もいつもなら仕事に行っている時間でしたが、「体調が悪い」と言って玄関で煙草を吸っていました。弟もいつもなら外で遊んでいる時間なのにどういうわけか家にいました。奇跡的にその朝は家族全員が家の中にいたのです。もしあと数分原爆投下が遅れていたら、みんな外にいて死んでいたか大火傷を負っていたでしょう。実際、爆心地から1.6kmに住んでいた家族が、全員助かったという例は聞いたことがありません。

玄関の前にはキョウチクトウがあり、その向こうに門がありました。8時15分、突然その向こうで見たこともないようなオレンジ色の目もくらむような光がピカッと光ったのです。市内に面した西側に窓がある部屋にいた母は、太陽が二つ見えたと言っていました。そしてしばらくしてお腹に響くようなドーンという音がしました。広島では原爆のことをピカドンと呼びますが、文字通りピカッと光ってドーンという音がしたのです。

自宅の窓から、赤と黄と紫を混ぜたような火の玉がフワフワ浮いているように見えた(画:母)

何が起こったかも分からないまま気づけば、私は玄関の端に置いてあった帯ダンスの下敷きになっていました。あたりは真っ暗でした。その時は痛いとか苦しいとか何も感じませんでした。ただ恐ろしくてブルブル震えていました。私は「助けて~!!」と夢中で叫びました。どこからか母の「お母さんはここにいるよ~」という声が聞こえました。2歳の弟はまだ言葉もはっきりしゃべれなかったのですが、「たくてけえ!たくてけえ!」と言ったことは今でも覚えています。その声を頼りに、動くことができた父があたりに散乱している倒れた柱や家具などを取り除いて、私達をなんとか引っ張り出してくれました。弟は顔も頭も血で真っ赤で、大ケガを負っているようでした。

私達はとにかく家の外に出ました。「岡本」も「こぶばぁば」も飛ばされたのですが、自力で這い出ることができたようです。父がケガをした弟をおんぶしたり抱っこしたりしながらみんなで防空壕に避難することにしました。母はガラス戸を2枚突き破って飛ばされていたらしく、ガラスの破片が体中に刺さり動けなくなっていました。大きく立派だった家は、建物家具もろとも爆風に吹き飛ばされて完全に倒壊していました。

外では方々から助けを求めるなんとも言えない叫び声が聞こえました。父はすぐに防空壕には行かず、2~3人の人を助け出しました。またしばらく行くと知り合いのKさんの子供が「お母ちゃんを助けて!」と壊れた屋根の上で、声を枯らして叫んでいました。父と「岡本」が助けようとしましたが、とても助けられませんでした。火がすぐそこまで迫ってきていたのです。私達家族はなんとか防空壕に辿り着きました。壕の中で母が弟の血まみれの顔を拭いてあげると、額に小さいケガをしていただけでした。

私達が壕の中から外に目をやると、目の前を頭から足の先まで肌が見えるところがないほどに血でまっ赤になった男性が戸板に乗せられて通って行きました。その人は私がよくかわいがってもらった畑中のお兄ちゃんでした。

それから私達は比治山にある防空壕に行くことになりました。父はその途中でも方々の家の屋根や植木に燃え移っていた火を消そうと水をかけながら先に進みました。山に登る途中、死体がゴロゴロ転がっていたので、私は胸が詰まりました。中には知っている人が何人もいました。どうしても死体を踏まなければ歩く事もできませんでした。死体を踏んだ時の足の裏の感触は、今も忘れられません。また手の指先から皮膚をぶら下げてゾロゾロ歩いて行く人々も通って行きました。手を下ろすと痛いので、自然に胸の前あたりまであげて幽霊のように歩いているのです。

山の中腹にある防空壕に着いたにもかかわらず、父は再び燃えさかっている町の方へ下りていきました。そしてバケツ一杯の水とヒシャクを持って戻って来ました。息も絶え絶えに「水をくれ!水をくれ!」と言っている被災者の口に、水を垂らしてあげていました。役人から「水をやると死ぬぞ。」と言われても、父は「水を飲んでも飲まなくても死ぬなら、飲ませてあげればいい。」と言って飲ませてあげていました。水を口に含んだ人達は、まるで「ありがとう。」というように唇を動かして亡くなっていきました。全身に火傷を負った多くの人達は、水を求めて川に入って死んでいきました。比治山の下を流れる京橋川には、死体が累々と浮かんでいました。

京橋川に累々と流れる大量の死体 (画:平山由紀乃、所蔵:基町高校)

防空壕の中は真っ暗で、すでに亡くなっている人もいましたし、ケガをした人達でいっぱいでした。その生々しい臭いが壕の中に充満していました。私達の頭上では米軍機が飛んでいました。後になって分かったことですが、実際は原爆の威力を確認するための偵察機だったそうです。たとえ敵であったとしても、あの惨状を見て機上の米兵はどう思ったでしょう。

私達はいつまでもこの壕の辺りにいても仕方がないので、とにかく山をおりることにしました。比治山の上にあった吊り橋の袂には、死体が山のように積み上げられていました。山の頂上に着くまでには同じような死体の山がいくつもありました。比治山の反対側の段原に下りましたが、ほとんどの家は燃えていませんでした。段原には三ッ星製菓があり、そこにはカンパンがあることがわかっていましたので、父が散乱していたカンパンを拾ってきてくれました。

比治山の吊り橋。何百人もの死体が積み上げられていた。兵隊が死体を投げ上げていた。主人は火傷をした人達に水をあげたが、翌日にはみんな死んでいた。(画:母)

母は全身にガラスが刺さっていましたが、とりわけ右側の肩から背中にかけては傷がザクロのようにまっ赤に割れて赤い肉が見え、服に血がべっとりとついていました。それでも痛いとも言わずに私達の後をソロリソロリとついてきていました。弟は父に抱かれていました。広島駅の北側にある東練兵場あたりまで来ると、空には火災によって発生した火災旋風に巻き上げられたまっ赤に燃えるトタン板や大きな板から木片まで様々な物が舞っていました。それらが落ちてきて地面は熱く歩けないほどでした。また地面には死体が転がっていました。裸同然の私は裸足で熱く燃えるガレキやガラスや死体までも踏んだりしながらとにかく火から逃れようと前へ前へと進みました。

大須賀町、午後6時頃。金庫の中で人が死んでいた。(画:母)

それから饒津(にぎつ)神社の前を通り、大須賀町までやってきました。大須賀町では貨車がひっくり返っていて、米がザーザーとこぼれ落ちていました。父はその米も少しすくい取ってきました。牛田あたりまでくると、それまで追いかけてくるように火焔が迫っていたのに、ようやく火の勢いが止まってくれているようでした。もう日は暮れていました。東の山を見上げると、市内の火災で頂上が赤く染まっていて、牛田のあたりもボーと明るかったです。

大須賀町、夕方。貨車が燃えて俵から白衣米がザーザー出ていた。(画:母)

私達家族4人、「岡本」、「こぶばぁば」に加え、家の近所に住んでいた叔父や叔母、従姉妹2人を合せて10人が、牛田を流れる小川の二叉川の土手の草の上で疲れ果てた身体を横たえました。一体何キロ歩いたことでしょう。みんな裸足で、ガラスの破片や木片や釘も踏みながら歩きました。死体も踏みました。その感触は今も忘れられません。道路とは言えないような熱せられたところをひたすら歩き続けました。

私達はその土手に2ヶ月ほどいました。食べる物は父がどこからかキュウリやナスを貰ってきてくれたり、昆虫を捕ってきたり、前の小川で魚をつかまえてくれていました。水は小川の水を飲み、その小川に着ていた下着のまま入って身体も洗いました。 2ヶ月くらいして、その土手の近くの空き地に、父と「岡本」が板を縄でくくって床を作り、その周りを焼けたトタンで囲っただけの掘っ立て小屋のようなものを建ててくれました。私はもう起き上がることもできずに、ずっと寝たきりになっていました。原爆投下後から多くの被爆者が起き上がることもできないくらいの倦怠感で寝込んでいたそうです。当初は原因が分からず、仕事もできず家でブラブラしていたことから「原爆ブラブラ病」と呼ばれていましたが、後に放射能による内臓の機能低下が原因だと考えられるようになりました。多分私もそうだったのではないかと思います

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