早志 百合子 Yuriko Hayashi

奇跡に生かされて

7. バスガイドに

1954年、私は基町高校を卒業し、地元バス会社にバスガイドとして就職しました。歌や踊りや演劇が好きな明るい性格だったので、先生が勧めてくださいました。仕事は中国地方5県の観光地をバスであちこち案内することでした。バスの中で、観光地の説明をしたり、ゆかりの歌を歌ったりするのです。

ところが、他の観光都市と違って、焼け野原になった広島ではどうしても原爆と関わりのある場所を案内せざるをえませんでした。特に平和祈念公園はメインでした。慰霊碑までは案内できましたが、原爆資料館の入口まで来ると、足がすくみ、体がこわばって顔から血の気が引くのが分かりました。どうしても入ることができず、他のバスのガイドさんが私のバスの乗客を自分の乗客と一緒に案内してくれ、私は外で待っていました。平和公園にバスが近づく度に原爆についての詳細を説明しなければなりませんでした。そして必ず歌わなければならなかったのが、「原爆許すまじ」でした。

♫ふるさとの街焼かれ
 身寄りの骨埋めし焼け土に
 今は白い花咲き
 ああ許すまじ原爆を
 三たび許すまじ原爆を
 われらの街に♫

私は最初の2小節を歌うのが精一杯で、胸が詰まって歌えなくなりました。これが毎回続きました。

また市内が一望できる比治山にも必ず行くことになっていました。しかし比治山の上からは私がかつて住んでいた土手町が見えました。また比治山は最初に逃げた場所であり、そこで多くの人々が体に火傷を負って、「水をください。水をください。」と水をほしがってもがき苦しんで死んでいくのを見た場所でした。火が迫ってくる中、死体を踏み越えながら登った先の防空壕には、大火傷を負った人、すでに息絶えた人でいっぱいで、今でもその阿鼻叫喚の地獄のような光景や臭いが脳裏に焼き付いて離れません。バスガイドという仕事はとても自分に合っていたし、楽しかったのですが、次第に耐えられなくなって、3年近く働き退職しました。その後25歳で結婚するまでは中国電力の関連会社で事務や受付の仕事をしていました。

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