早志 百合子 Yuriko Hayashi

奇跡に生かされて

8. 結婚と家族

1961年4月に高校の先輩と結婚し、すぐに妊娠しました。夫の母親からは被爆者であることから強く結婚に反対されていました。妊娠中は悪性貧血から切迫流産や妊娠中毒症を起こし、出産するまでの9ヶ月間の半分は入院していました。医者からは、このまま妊娠を続けていては、母子ともに命に危険があるから赤ちゃんは諦めるようにと言われましたが、私は、すぐ「生まれつき虚弱体質で、医者からも10歳までは生きられないと言われていた私が、原爆にあっても今まで生きてくることができました。私の命は今終わっても悔いはありません。どうぞ子供だけは助けてください。」と懇願しました。

翌年2月に、5日間も続いた難産の末、娘が元気に生まれた時には、ほんとに嬉しかったです。陣痛の間、母がずっと傍についてくれ、体をさすってくれていました。そのせいで母の手の皮が剥けて、あちこちから血がにじみ出ていました。元々結婚に強く反対していた義母は、初孫が生まれても1年間も会いに来てはくれませんでした。その3年半後には息子が生まれました。

母は、被爆後20年ほど経ってから甲状腺癌を発症し、その後、肺、肝臓、頭の骨などに次々癌が転移し、7度も大手術をしました。1986年に76歳で亡くなるまで、入退院を繰り返していました。

母が亡くなって1ヶ月後に、今度は私が乳がんの手術を受け、右の乳房と脇のリンパを全摘しました。52歳の時でした。ただ私の癌が、母が亡くなった後でよかったと安堵しました。もし母が生きていたらどんなに悲しい思いをさせていたことでしょう。

体操の指導 (撮影:土田ヒロミ)

この翌年のある朝、指導していた体操教室に向かう途中で、胸の中央付近と両肩が尋常ではない痛みに襲われ、息を吸うことも吐くこともできないような状態になりました。教室に着いてからは、言葉を発することもできないほど息が苦しくなってきました。そしてタクシーでかかりつけの医院に向かったのですが、医院に着くなり気を失ってしまったのです。気がついた時にはすでに夕方になっていて、私はベッドの上で、夫も娘もその傍にいました。「心筋症」と診断されて、そのまま入院しました。しかし普段から体操をしていたおかげか、11日後には退院し、2ヶ月後には体操教室に復帰しました。

その後も膀胱癌やリュウマチなど次々と病に襲われ、被爆の影響を考えざるを得ませんでした。しかし、これらの大病を経験し、私は「これからは自分に素直に、納得のいく生き方をしよう。一日一日を悔いのないように。」と改めて強く思いました。

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