早志 百合子 Yuriko Hayashi
奇跡に生かされて
6. 長田新著「原爆の子」に掲載される
ABCCに無理矢理連れていかれた1951年は、私にとって転機とも言える年でした。もう一つの大きな出来事は、後に、広島大学教授の長田新著の「原爆の子」に掲載されることになる手記を書いたことです。


中学2年生のある日、国語の先生から被爆体験を書くようにと言われました。クラスには、私ともう一人の2人しか被爆者はいませんでした。家に帰って書き始めると、それまで封印していた記憶が次々とよみがえってきました。
広島市内、周辺の小学校、中学校、高校から集められた少年少女たちの手記1000編余りの中から105編が選ばれ、その年の10月に「原爆の子」として岩波書店から出版されたのです。私達には本になったことも知らされませんでした。翌年2月に、この本に手記を掲載された子供達105人のうちの約50人が、広島大学文学部に集められました。会場に着くと、広島の著名な方々が、正装で席についておられました。


長田先生は1人ずつの頭を撫でて、「よく頑張ったね。」「これからも頑張って生きていくんだよ。」などと声をかけながら一冊ずつ手渡されました。私には、「元気にこれからも生きていくんだよ。」と言われました。いただいた本の表紙の裏には長田先生の直筆で「幼き神の子の声を聞け 長田新」と書いてありました。その時初めて自分が書いた作文が本に掲載されたと知ったのです。私はびっくりしたと同時に感慨深いものがありました。
この本は、被爆当時4歳から中学生だった子ども達が、純粋な目を通して見た原爆投下の様子、その後の家族の生活を、被爆6年後に書いた手記を集めたもので、今日に至るまで50版を重ね、18カ国語に翻訳され、世界中で読み継がれています。

翌1952年に、長田先生は被爆の経験の有無にかかわらず、広島市内に住む小学生から大学生まで約50人の少年少女を集め、「原爆の子友の会」を結成されました。私達は演劇「原爆の子」を上演したり、関川秀雄監督の映画「ひろしま」の製作にも協力したり、時にはエキストラで出演しました。私達は大学生のお兄さんの自転車の後について、瓦やガラスの破片を集めたり、焼けた衣服を再現するために各家庭から服を貰ってきて少し焼いたり、ドロをつけたり、石でゴリゴリこすってボロボロの服を作るなどのお手伝いしました。また集めて来たガレキを仕分けしたりもしました。会は1961年に長田先生が亡くなられたことや、進学や就職などでばらばらになり自然消滅していきました。



1976年には、写真家の土田ヒロミさんが「原爆の子」に手記を掲載された一人一人を訪ね、写真集を出そうと、3年間かけて少しの手がかりを頼りに歩いて探し出してくださいました。そのお陰もあって「原爆の子」に手記が掲載された105人と長田氏が書いた序文の中で言及された87人のうちの107人の消息がわかりました。その中にはすでに鬼籍に入った人、撮影や取材を拒否した人もいました。消息が分かった「原爆の子」たちは年に一度集まり親睦を深めることになりました。後に会の名称を「原爆の子きょう竹会」としました。土田さんは1979年に写真集を出版されました。

ただ現在では作者に本に掲載するという意図を告げることなく勝手に掲載するなどは許されないことでしょう。実名で本に掲載され、知られたくない事実が世に出てしまったことで、大変な苦しみを背負うことになってしまった人も一人や二人ではありませんでした。被爆したことを隠して生きてきたのに、周囲に知られ、ひどい差別を受けた人もいます。そのせいで精神的な病に苦しんだ人、自殺に追い込まれた人もいました。また両親を亡くし、親戚に育てられていた人も多く、親への思慕を書いたことで、その後義家族とぎくしゃくした関係になってしまった人もいます。
2013年に、「原爆の子きょう竹会」から「原爆の子」執筆者の被爆後の人生を書いていただいた「原爆の子 その後」という本を出版しました。その本の執筆を依頼するために会が行なった1999年の調査では、105人中、すでに亡くなられていたのは9人、連絡がつかない人は20人で、76人の消息は確認できました。