早志 百合子 Yuriko Hayashi

奇跡に生かされて

4. 戦後の家族と生活

母はガラスが刺さって埋まったままになっているところが化膿し膿が出てきました。そしてそこにハエがたかりウジがわきました。その臭いは耐えがたいものでした。弟は今でもその臭いが忘れられないと言います。何日か経って、牛田小学校の校庭で医者が治療してくれるという噂を聞き、父が母を小学校に連れて行ったのですが、長い行列が出来ていて、何時間も待たされたあげくに、ガラスを抜いてくれる訳でもなく赤チンを塗ってくれただけだったそうです。どんなケガでも火傷でも、そこには赤チンしかなかったのです。母の右肩の傷は、その後肉が盛り上がりケロイドになって、死ぬまで癒えることはありませんでした。

父は子供だった私の目からは一番元気そうに見えました。浴びた放射能を思うと、もしかしたら体が大変だったこともあったでしょうが、いつも気丈に振る舞い、家族のために動き回ってくれていました。そして父は、自分たちも食べるのに困っているのに、周りに困っている人がいると、なけなしの物であってもあげてしまうような人でした。原爆にあった時に62歳だった父は、84歳で亡くなりました。弟も同じように被爆しましたが、急性症状も何も出ませんでした。

私は急性原爆症になりました。毎日嘔吐するし、高熱が続き、髪の毛も抜けていきました。父が作ってくれた小屋に入ったころには、私はもう起き上がれないほど体調が悪くなっていました。ほとんど何も食べていないのに、強い吐き気で血も吐きました。母は薬草になりそうな野草を川の土手で摘んできて、それを煎じて私に飲ませてくれました。私は体調が戻るまで1年くらいかかりました。元気になったのは父母の愛情のお陰だと思っています。

特攻隊に行っていた兄は、搭乗する予定の特攻機が出撃する直前に終戦になり、その年の年末ごろに復員してきたと記憶しています。父が土手町の家の跡に居場所を書いた板切れを立てていたので、牛田の私達の小屋に帰って来ることができました。お国のために命を捧げるという強い意志を持って志願したにもかかわらず、志かなわず自宅に戻ってきたことで心を病んでしまっていました。近所の人達から非国民扱いを受けることを恐れて、母も兄を外に出さないようにしていました。約2年間は廃人のようでした。その後次第に心の健康を取り戻し、元々几帳面で頭が良かったので、知人の紹介で銀行に就職できました。

当時は放射能というものがどんなものか誰も知らず、直接被爆していない人達が次々と原爆症を発症したり、亡くなっていくことで、みんな「毒ガス」が市内に残っていると信じていました。父は土手町に帰ることを断念し、牛田にとどまることにしました。父は市が被災者のために用意してくれた牛田の高いところにある代替地をもらい受け、家を建てました。かなり大きな家でした。しかし4~5年後、どういう経緯かは幼かった私には分かりませんが、土地も家も騙されて取られてしまいました。仕方なく父は掘っ立て小屋を建てていた土地に、再び家を建てました。父はお人好しで、困っていると分かると、何でも家にあるものをあげてしまうような人でしたので、戦後の混乱期にだまされてしまったのでしょう。

私は3年生の2学期と3学期はほとんど寝たきりで、学校には行きませんでした。少し体調が戻った翌年4月に牛田小学校4年生に転入しました。しかし牛田小学校には直接被爆した生徒がほとんどいませんでした。ほとんどの子供達は疎開していて広島にはいなかったのです。子供達だけでなく教師からも「病気がうつる!」「被爆者は毛穴からも毒ガスが出るらしい。」「呼吸してもガスが出ている。」「お金がないから、修学旅行にもいけないでしょ。」などと言われ、いじめられました。体調が戻っていなかったこともあって、小学校を卒業するころまで学校にはほとんど行きませんでした。1949年に幟町中学校に入学しました。このころにはかなり元気になっていました。

牛田小学校4年生学級写真(前列左から3人目) 

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