1. おいたちと子供時代

私は1932年10月17日に、父・重登と母・チエ子の次男として安芸郡船越町(現・安芸区船越)に生まれました。私の2歳上には兄・正規、3歳下に妹・絹子、7歳下に弟・恭男(たかお)、10歳下に妹・ミチエ、14歳下に弟・勉がおり、8人家族でした。家は農家で、麦、さつまいも、大根、かぼちゃ等を栽培していました。幼いころから下の子供達の面倒を看たり、畑仕事の手伝いをさせられたりしていました。

親戚の葬儀にて 母の膝に抱かれて 1歳ころ

私が生まれる前年の1931年に満州事変が勃発し、1937年には日中戦争、1941年には太平洋戦争が始まり、日本はいわゆる15年戦争と言われる長い戦争の時代に入っていました。私が生まれてから原爆にあう12歳まで、日本はずっと戦争をしていたのです。しかし私は幼かったし、戦地が日本国内ではなかったので、戦争をやっていることは知っていましたが、実際の戦争がどういうものなのかという実感はありませんでした。毎日、野山に囲まれ自然豊かな自宅のまわりで天真爛漫に遊び回っていました。少し離れた海にも、自分で藁を編んで作った草履をはいて歩いて行き、アサリやミル貝やワタリガニ、穴ジャコなどを捕っていました。貝掘りは家族の食料のためでしたが、子供にとっては楽しい遊びでした。

それでも生活のすべては戦争遂行のためにありました。物資は次第に不足していきました。米や野菜、マッチや石けん、砂糖や塩も配給になりました。家で作っている野菜も供出しなければなりませんでした。各戸が供出する量も畑の面積などから町内会で決められていました。我が家でも供出する野菜が多くなるにつれ、家庭では芋の蔓や大根の葉を乾燥させ、食べる時に水にもどしてご飯に混ぜて食べるようになりました。主食はサツマイモでした。我が家のように野菜を作っている田舎の農家はまだよかったのですが、都市部の人はリュックに着物を入れて野菜と物々交換するために我が家のある船越あたりにも来ていました。

6歳になると船越小学校に入学しました。1941年には小学校という呼称が国民学校に変わり、私達の学校も船越国民学校になりました。教育内容もそれまでにも増して軍国主義の色彩が強くなり、教育勅語に則った教育が徹底されました。校長先生は、朝礼で「日清・日ロ戦争といった今までの戦争で日本は一度も負けたことはない。負けそうになっても必ず神風が吹く。」「世界地図を見てみなさい。日本はアメリカに向かって弓を引いているような形になっているだろう。」と訓示されていました。また、私達子供は出征していく兵士の家の前で、「バンザイ!バンザイ!」と言いながら日の丸の小旗を振って見送っていました。

小学校入学 クラス写真 4列目左から5人目

運動会では、男子は二手に分かれ、煙幕の中で木製の小銃を撃ち合うといった競技をやっていましたし、女子は竹槍の訓練もやっていました。日常生活のすべてが戦争一色でした。「一億総火の玉」「贅沢は敵」「ガソリンの一滴は血の一滴」「打ちてしやまん」と言った言葉も日常的に教えられ、子供であっても国民として戦争に協力しなければならないと信じていました。

時々学校で、戦地で戦う兵隊さんに送る慰問袋を作っていました。私達が普段決して食べることができないようなチョコレートやキャラメルも入っていました。たまたま手に入った物でも、配給で貰ってきた物でも、兵隊さんが喜びそうなものがあれば家から持って行きました。兵隊さんは戦地で戦ってくださっているのだから、私達は我慢しなければいけないと教えられていました。

後で聞いたことですが、私達が供出した食べ物もほとんど兵隊さんのところには届かず、戦地では兵隊さん達は飢餓で亡くなっていたのです。戦死した兵隊さんの約6割は戦闘による死ではなく、栄養失調から餓死したと聞きました。輸送船が途中で沈められていたのです。特に台湾とフィリピンの間にあるバシー海峡では、米国軍の潜水艦が待ち構えていて輸送船を沈めたそうで、「輸送船の墓場」と呼ばれていました。 1945年3月、船越国民学校を卒業し、県立広島商業学校(現・県立広島商業高校)に入学しました。しかし、校舎は陸軍に接収され陸軍兵器学校広島分教所になり、迷彩色に塗られていました。私達は広島県高等師範学校(南区皆実町、爆心地から2.0 km)の校舎を使わせて貰っていました。入学したと言っても学校での授業は全くありませんでした。毎日、農家で手伝いをしたり、東練兵場に行って農作業をしたり、建物疎開など広島市のあちらこちらに動員され働いていました。建物疎開というのは、空襲によって火災が周辺に広がるのを防ぐために、あらかじめ重要な建物の周りなどにある家々を壊し、空き地にしておくことです。

1945年3月 国民学校 卒業写真 2列目左から4人目 

Share