平野 貞男 Sadao Hirano

戦争は絶対にしてはいけません

3. 被爆後の混乱と苦しみ

火傷をしていたのは、右腕全体と左腕・首・背中・足の一部でした。一番火傷がひどかった右腕は骨が見えるほどえぐられていました。最初のうちは母が家にあったヨードチンキをつけてくれていましたが、すぐに底をつき、その後は食用油を塗ってくれました。それもなくなるとキュウリを擦って汁を付けてくれたのです。それでも傷は膿み、悪臭のする汁が出て、それが布団を通り抜け、下の畳までシミが広がっていました。近所の人が縁側で、「この子はもうだめじゃろう。」と話しているのが聞こえました。よく被爆者の話に傷口にウジがわいたと言われますが、我が家では私の寝ている部屋に蚊帳が吊してあり、幸いにもウジがわくことはありませんでした。私は、約20日間は痛みのあまり布団の上でうめいていました。母はできうる限りのことをして看病してくれ、弟や妹も母を手伝ってくれていました。母はほとんど寝ていなかったのではないかと思います。また母はその時弟を妊娠していました。

2ヶ月くらいしてようやく痛みも和らぎ、歩けるようになってきたのですが、今度は火傷をしたところが赤く腫れ上がり、皮膚は硬くなってケロイドになっていきました。ケロイドは皮膚が引きつっているため、右腕は伸ばすこともできません。ケロイドは80年近く経つ今も残っていますし、今も起きている間はずっと筋が引きつり痛みがあります。

学校が再開したのは、原爆投下から約2ヶ月後のことでした。級友達も私ほどではありませんでしたが、ほとんどがひどい火傷を負っていました。校庭には陰になるような建物はなかったのですが、火傷の軽かった者もいました。学校は、入学以来間借りしていた師範学校ではなく、本来の商業学校(中区江波)に戻りました。

県立広島商業学校では、原爆で職員3名、4年生33名、3年生21名、2年生64名、1年生17名が亡くなりました。(中国新聞、メディアセンター)

学校が始まったと言っても授業が始まった訳ではありません。校舎の窓ガラスは粉々に壊れ、窓には板が張ってありました。そのため教室は電気をつけないと真っ暗でした。机や椅子も使い物になるものがほとんどなく、私達は使わせていただいていた師範学校から使えそうな机や椅子を運んで来なければなりませんでした。途中の住吉橋が原爆で落ちてしまっていたので、数人が渡し船に乗り、机や椅子を船の両側に浮かべ、それを船の縁から手を出して持って向こう岸まで渡しました。重いものを持ったり、傷口が物にあたると、薄くなった皮膚が破れ、血が出てきました。母はケロイドを保護するために腕がすっぽり入るような手甲(カバー)を縫ってくれました。

教科書なども何もなく、先生から8ページ分の教科書が印刷されている大きなわら半紙が配られ、各自がそれを切り、綴じて教科書にしました。鉛筆も消しゴムも何もありません。間違った箇所を消すために、指で紙をこすっていました。

食べる物もほとんどありませんでした。お弁当といっても米がないので大根を細かく切って炊いた大根飯です。私達子供はそれでもまだ食べる物がありましたが、両親はほとんど何も食べずに子供達に与えていたと思います。

中学生時代は家計を助けるために様々なアルバイトをしました。私だけではなく、家族全員が何かしら仕事をしていました。近くの日本製鋼所の建物にGHQが入っていて、そこのハウスボーイもしました。ピカピカに磨き上げられた銃が並べてあった廊下を、親方に命令されてホウキで掃いていたら、大きな兵士が飛び出てきて怒鳴られたこともありました。殺されるかと思いました。運動靴の行商もやりました。竹に油紙を貼った物を代用ガラスとして窓枠にはめる仕事もしました。母は家で飼っていた山羊の乳を搾って煮沸して売ったり、鶏の卵を売ったりしていました。すぐ下の妹は、母と一緒に文房具や生活雑貨の行商をしていました。高校に入るころには父も安定した仕事を得ることができ、私達はアルバイトをしなくてもよくなりました。

学校までは国鉄の海田市駅から広島駅まで列車で通学していましたが、それが命がけでした。海田市駅に来るまでにすでに客車は復員兵やオーストラリア兵でぎゅうぎゅう詰めで、デッキにまで人があふれていましたから、客車に入りたい者は窓からしか入れません。海田市駅から乗る者はデッキの手すりに掴まるか、石炭車に乗るか、車両と車両の連結部に乗るしかありませんでした。同級生の森本くんがデッキの手すりを掴んで乗っていたところ、信号機に頭をぶつけて亡くなったということもありました。

広島駅のあたりは本当に大混乱していました。浮浪者や復員兵があふれ、わずかな食べ物をめぐって喧嘩が絶えませんでした。またヤクザが出刃包丁を振り回して喧嘩をしていることも珍しくありませんでした。何が起きるか分からないからと、ナイフを身につけて登校している上級生もいました。駅から学校まで歩いて行くのですが、まだ片付けがされていない道路では、ジャリジャリと人骨を踏みつぶしながら歩きました。特に河原では人骨があちこちに積み上げられていました。このような混乱は終戦後2年近く続いたと思います。

1947年には6-3-3制の新しい学校制度が導入され、居住していた地区によって学区が決められました。私は県立第二中学校に編入されましたが、翌年1948年の中学卒業時には県立芸陽高校の併設中学校と名称が変っていました。そして芸陽高校に進学しましたが、翌年には学校の名前が再び変わり観音高校になりました。校舎も点々と移動しました。

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