平野 貞男 Sadao Hirano

戦争は絶対にしてはいけません

4. 被爆者に対する激しい差別

ケロイドがあることが分かると、人はまるで汚いものを見るかのように、ある人は凝視し、ある人は目を背けました。当初はケロイドを隠して生活していました。まだ放射能障害について誰も知識を持っている者がいない時代でしたので、感染するかも知れないと避けて通る人もいました。

また、倦怠感がひどく、集中力も忍耐力もありませんでした。階段を上がるのも四つん這いになって上がらなければならないほどでした。少し動くと、すぐに横になりたいと思いました。そしてすぐに病気にかかってしまうような状態でした。

高校生の時、両親から勧められて一人で湯治のために山陰にある温泉に行きました。私が浴室に入ろうとした途端、その場にいた10人くらいの人達がサーと潮が引いたように出て行ってしまいました。それは感染症がうつると思われているようでとてもショックでした。その時、もう絶対に公衆浴場には行かないと決めました。その後一度だけ親戚の人と別府温泉に行きましたが、その時は個室の温泉に入りました。

1951年に高校を卒業し、広島信用組合に就職しました。その年の10月には銀行法が改定され名称が広島信用金庫になりました。銀行ですから毎日大勢のお客さんに会わなければいけませんでした。当初はできるだけケロイドが見えないように隠していました。ところがこの銀行の夏の制服は半袖でした。お客さんが袖からでている腕のケロイドをじっと見て、醜いもの、不潔なものを見てしまったという表情をされるのが分かりました。中には、「気持ち悪い。」と口に出して言われる人もいました。私は隠すよりもちゃんと被爆者であることを伝えることにしました。

私だけではなく、多くの被爆者が差別に苦しみました。被爆者は体が弱く、すぐに仕事を休むからと就職もなかなかできませんでした。また障害を持つ子供が生まれるからと結婚を断られる人もいました。私は運良く就職できましたが、どれほど体が辛くても、決して同僚や上司に辛いと言うことはありませんでした。体が弱いという理由で解雇されるかも知れないからです。26歳の時に昭子(てるこ)と結婚し、子供も二人生まれました。その家族を養っていかなければいけないという責任感がありました。ケロイドの痛みと倦怠感に耐えながら37年間勤めて55歳で退職しました。

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