1. おいたち

私は、1941年1月31日に父龍雄、母喜美枝の4番目の子供として生まれました。私の上には兄2人と姉が1人、下には弟と妹が1人ずついました。家族は両親と私たち兄弟6人と祖母の9人でしたが、次兄と弟は幼い頃から三篠本町(現・西区三篠町)にある母の実家に預けられ育てられていました。ですから一緒に住んでいたのは7人です。家は高須(現・西区高須、爆心地から3.2km)にあり、自宅の隣には父が経営していた食料加工会社の工場がありました。仕事は主に宇品(現・南区)にある陸軍糧秣支廠に缶詰などの加工食品を生産し納品することでした。糧秣廠というのは、兵士のための食料品や軍馬の飼料を調達、配給、貯蓄を担っていた部署のことです。

私は幼いころはやんちゃだったようで、近所のいちじく畑の木に登り枝を折ってしまったり、麦畑の中を駆け回ったりしてよく怒られていました。肥料にするために糞尿をためている「野壺」に落ちたこともありました。

Share