伊藤 正雄 Masao Ito

Never ForgetからNever Againへ

2. 原爆投下

1945年の原爆投下時は、長兄は袋町小学校(爆心地から460m、爆心地から2番目に近い小学校)の6年生、姉は本川小学校(爆心地から410m、爆心地に1番近い小学校)の3年生でした。2人とも近所の小学校ではなく、電車で通わなければいけないような遠くの小学校に通っていたのですが、私は当時幼かったし、その後そのような話を家族としたこともなかったので、今もその理由は分かりません。またこの年の4月から政府の方針で、都市部に住む小学3年生以上の児童は、郊外の親戚の家に疎開(縁故疎開)するか、寺などに学校単位で疎開(集団疎開)するように決められていました。しかし、兄と姉は疎開していませんでした。8月6日は、兄は学校へ、姉は数日前から空鞘町(現・中区十日市町、爆心地から約600m)の親戚の家に泊まりに行っていました。私は4歳半、妹は1歳半でした。

私はその朝、家の前の道路で三輪車に乗って遊んでいました。突然青白い光が目の前を東から西へ走りました。そして爆風で吹き飛ばされ、一瞬気を失いました。意識が戻って泣きながら家へ走って帰りました。玄関口には、私を探しに出ようとしていた母がいました。下駄を脱いで家に上がろうとすると、母が、「脱がんでいいから、早く!!」と言いました。家は爆心地から離れていましたので、倒れたり壊れたりすることはありませんでしたが、家中に窓のガラスが散乱していました。母に手を引かれながら、家の一番奥の座敷に向かいました。座敷の畳を一枚めくるとあらかじめ作ってあった防空壕がありました。家族全員が入ることができる広さでした。おそらく飛ばされた時に割れたガラスで切ったのでしょうが、太ももなどに数カ所ケガをしていました。その傷跡の一つは、80歳を過ぎた今も残っています。

1時間ほどしてから大粒の黒い雨が降ってきたそうですが、私は防空壕の中にいたため、雨にあたることはありませんでした。私の住んでいた地域は、もっとも多く黒い雨が降ったと言われています。黒い雨とは、原爆炸裂後に巻き上げられたススやホコリや放射性物質を含んだ粘り気のある大粒の雨のことです。この雨を直接浴びた人々、飲んだ人々、また雨がしみこんだ土壌に育った作物を食べた人々は、その後放射線障害を発症し苦しめられました。

まもなくして軍から、工場の事務室に残っていた父に救援活動をするようにと命令が下されました。父は当時珍しくトラックを持っていましたので、すぐに広島市内に向けて出動しました。一方で市内からは多くの火傷やケガを負った人達が、我が家の横の道路をぞろぞろと西に向かって逃げていきました。我が家にも何人かの人達が助けを求めて入ってこられました。当時10人ほどいた従業員や母は、隣接する工場にその人達を連れて行き、土間に寝かせて手当をしてあげました。彼らの多くが一週間以内に次々と亡くなっていきました。

父は救護活動を終えた後、袋町小学校に兄を、空鞘町に姉を探しに行ったそうです。そして夜になってケガを負った兄を連れて帰ってきました。兄は小学校の建物の中にいて、即死は免れたようです。この学校では原爆投下時、校庭で朝礼が行われており、外にいた全員は即死だったそうです。両親は兄を私からは見えないように別の部屋に寝かせました。幼い私が見るには、あまりにもむごいケガや火傷を負っていたのでしょう。兄は両親の懸命の看病にもかかわらず、20日あまり経った8月29日に亡くなりました。兄の遺体は近くの空き地で荼毘に付されました。姉がいたと思われる空鞘町の親戚の家があったあたりでは、一面焼け野原になっていて、家の跡形もなく、遺骨も見つけることができなかったそうです。

我が家があった高須町・庚午北町地区で亡くなられた人は、ここの住民によって空き地(現・庚午第一公園)に集められ、約10体ずつ積み上げられ荼毘に付されました。兄のように運良く自宅に戻りながらも亡くなった人々の遺骨は、家族に引き取られましたが、避難途中に力尽きてこのあたりで亡くなられた人々の遺骨はここに埋葬されました。夏の暑い時でしたので、その臭いは凄まじいものでした。それは一週間も続いたでしょうか。その光景と臭いは今でも脳裏から離れることはありません。

1948年に発掘が行われ192人の遺骨が見つかりました。その遺骨は平和記念公園の中にある原爆供養塔に納骨されました。1954年にはこの地に地元住民によって原爆慰霊碑が建立されました。

戦後毎年8月6日には両親と、兄が眠る伊藤家の墓にお参りをしてきましたが、姉の遺骨はそのお墓にはありません。ですから空鞘橋の袂の川土手に建てられた本川学区原爆慰霊碑にお花を手向けに行きました。空鞘町やその周辺の町は爆心地からも近く、数千人もの人々の遺体が本川小学校に集められ、荼毘に付され、この碑が立っている辺りで埋葬されました。遺骨は後に平和公園の供養塔に納められましたが、その地に町内会有志の方々が碑を建てられました。また本川小学校にはこれとは別に、教職員・生徒のために建立された本川地区原爆慰霊碑があります。

母の実家にいた次兄と弟はケガや火傷は負ったものの命には別状はありませんでした。

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