伊藤 正雄 Masao Ito

Never ForgetからNever Againへ

3. 戦後の凄惨な生活

戦争が終わると、父の経営していた会社は、それまで主な取引先だった陸軍がなくなり、仕事の転換を余儀なくされました。私たちが住んでいた高須にはイチジク畑が多く、そこに目を付けた父は、会社をイチジクジャムの製造、販売業にしました。何とかして家族や従業員の生活を守らなければならなかったのでしょう。傍を走る電車から「伊藤のジャム」という大きな看板が見えたそうです。ジャム以外にもいろんなことをやり、父も母も必死で働いていました。

5年生になったころ、父が働けなくなってしまいました。この時、父は41歳でした。一般に「原爆ぶらぶら病」と呼ばれている病で、後に東京大学の都築正男教授が「慢性原子爆弾症」と名付けられています。原爆からの放射能を浴びたことで、被爆時は無傷であっても、数年を経て発症する原爆後障害の一つで、体力、抵抗力が弱り、極度の疲労のため働くこともできなくなり、軽い病気であっても重症化すること等が報告されています。父は原爆投下当日、軍の命令で救助活動のために市内中心部に入りました。また兄や姉を探すために爆心地近くに行っていました。帰ってきた時には、ケガも火傷もしていませんでした。しかし、この後66歳で、肝臓癌で亡くなるまでの25年間、体調が戻ることなく、一年の半分は原爆病院に入院しているという生活をしていました。

母は家族の世話をしつつ、父に代わって会社の仕事を担わなければならなくなりました。しかし家業は坂を転がり落ちるように傾き始めました。そしてとうとう1956年に倒産してしまったのです。私はこの年の4月に観音高校に入学したばかりでした。ある日、学校から帰ると家中の家具に差し押さえの赤い紙が貼られていました。私の勉強机にまで貼られていていました。家族は家と工場を処分して夜逃げ同然で引っ越しをせざるをえなくなりました。

私は7月に、入学したばかりの高校に退学届を出し、食品加工会社に住み込みで働き始めました。家族はバラックに住むことになり、私は会社の寮に入るしかありませんでした。朝早くから夜遅くまでたいへんきつい肉体労働で、15歳の身には辛いものでした。働き始めて半年もしないうちに、毎日微熱が続くようになりました。病院で検査をしてもらうと、肺結核にかかっていたのです。すぐに元宇品にあるサナトリウム(結核療養所)に入院することになりました。1956年の暮れも押し迫ったころでした。当時、結核は治療法もなく、死の病と恐れられていました。治療と言えば、安静と栄養補給でしたので、入院すると、患者はすることもなく、ただ栄養のある食事をしてのんびりすることが求められます。私にとっては、「三食昼寝付き」のまるで天国のような生活でした。

私はまだ初期でしたので、周りの入院患者のように片肺を切除されることもなく、病院のまわりを散歩したり、部屋で読書をしたりして過ごしました。もちろん冬になると、「今頃スキーにでも行ってるだろうなぁ」とか、夏になると「海で楽しく遊んでるだろうなぁ」などと自由に過ごせる級友達をうらやましく思うことはありました。本を読むことは好きでした。入院中には倉田百三の「出家とその弟子」、「愛と認識との出発」や山本有三の「路傍の石」、「真実一路」、島崎藤村の「夜明け前」、「若菜集」、「破戒」なども読みました。

サナトリウム入院中 (1957)

入院してから2~3ヶ月ほど経ったある日、アメリカのある団体からサナトリウムに、結核の特効薬と言われ、たいへん高価なストレプトマイシンが聖書と一緒に送られてきました。その薬を使った治療を受けたのが私だけだったので、おそらくアメリカに住む従兄弟がその団体を通じて送ってくれたのだと思います。私はストレプトマイシンの投与を半年ほど受けました。

聖書は日英両語が併記されているもので、さっそく読み始めました。ところがある聖句に目が釘付けになったのです。「汝の敵を愛し、迫害する者のために祈れ」(マタイによる福音書5章44節)です。それまでは気になるところに線を引きながら読んでいましたが、「敵を愛せよ」という聖句に怒りが沸いてきて、聖書を壁に投げつけました。私にとっての敵とは、多くの無辜の市民を一瞬で殺し、私の家族をボロボロにしたあの原爆を落としたアメリカです。その国をどうして愛することができるでしょう。

ストレプトマイシンがよく効いたのでしょう。私はすっかり健康を取り戻し、入院してから1年余りの1958年春に退院しました。しかし退院しても戻る家はありませんでした。両親は引っ越して以来小さなバラックに住んでいましたが、私が入る余地はありませんでした。かわいそうに思った母方の祖母が私を引き取ってくれることになりました。祖母には母(三女)の他に娘が3人、息子が3人いましたが、長女、次女の2人はアメリカに嫁ぎ、長男は戦死し、次男は若くしてガンで亡くなり、三男は大阪の会社に就職していましたので、家には一番下の四女しかいませんでした。祖母も叔母も私にたいへんよくしてくれました。

そして、私は2年遅れで高校に復学しました。1年生の一学期を終えたところで退学していましたので、二学期からのスタートとなりました。学費も祖母が出してくれました。1年ほどして祖母の家の近くにキリスト教会があることに気づき、いつの間にか毎週通うようになっていました。入院中聖書を壁に投げつけた私でしたので、皮肉なことです。そして半年後には洗礼を受けクリスチャンになりました。入院中、倉田百三の「出家とその弟子」を何度も読み、退院後は出家しようかと考えていたくらいでしたので、浄土真宗の教義と似た点が多いキリスト教に魅かれたのも不思議なことではなかったと思います。

祖母は私を大学にも進学させてくれました。1961年に高校を卒業し、広島商科大学(現・修道大学)に入学し、1965年に大学を卒業しました。卒業後は広島市内の会社に就職し、2006年に65歳で退職するまでそこで働きました。ちょうど日本の高度成長期で、私もモーレツ社員として働きづめの日々でした。

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