伊藤 正雄 Masao Ito

Never ForgetからNever Againへ

5. 原発推進から原発反対へ

1955年、読売新聞社主催の原子力平和利用博覧会が東京の日比谷公園で開催され、それを皮切りに翌年全国20カ所でもそれぞれの地元の新聞社などが共催し開催されました。全国での観客動員数は250万人を超えました。広島でも前年に開館したばかりの平和記念資料館で、展示されていた被爆資料などを移動させ、開催されました。原爆は悪であるが、平和利用すれば繁栄に繋がるというキャンペーンが全国的に展開されました。当時、原爆市長と呼ばれ、被爆者の救済のために奔走していた浜井信三市長も「原子力の最初の犠牲都市に原子力の平和利用が行われることは、亡き犠牲者への慰霊にもなる。死のための原子力が生のために利用されることに市民は賛成すると思う」と述べられたそうです。

中学生だった私はこの博覧会を見て、原子力を平和利用することで明るい未来が開けると思い感動しました。その後、アメリカでスリーマイル原発事故が起ころうと、ソ連でチェルノブイリ事故が起ころうと、なぜか日本は絶対にあのような事故を起こさないだろうという原発の安全神話を根拠なく信じ、以降、妹が亡くなるまで原発推進派として生きてきました。

2011年、3月15日に、長年原爆症の一つの甲状腺障害で、妹は息を引き取りました。67歳でした。その4日前の3月11日、東北地方の太平洋岸で大きな地震が発生し、その後巨大な津波が押し寄せました。いわゆる東日本大震災です。そして福島第一原発は、津波で全電源を喪失し冷却装置が停止してメルトダウンを起こしてしまいました。日本中が巨大地震と原発事故の恐怖におののいていた渦中に、奇しくも放射線障害で1人の被爆者が亡くなったのです。

私たちが住んでいた家は爆心地から3.2キロ離れていて、直接被爆はしていませんでしたが、その後降ってきた黒い雨で周囲の土壌は放射能汚染されていました。しかし当時、そんなことは知るよしもありません。私たちは周囲の畑でできた野菜や果物を食べていました。妹は被爆当時1歳半でした。その後、結婚して大阪に住んでいました。ところが50歳を過ぎたころ、甲状腺障害を発症し、入退院を繰り返すようになったのです。妹の甲状腺障害が、黒い雨を浴びた土壌で育った作物を摂取したことによる内部被曝に起因するものかどうか、科学的に証明することはできません。しかも妹の3人の息子のうち2人もが甲状腺癌を患い、手術を受けています。妹は息を引き取る間際まで自分が被爆者だから息子たちが甲状腺癌にかかったのではないかと憂いていました。甥たちの癌と妹の被曝の因果関係は証明できないと言われても、全く関係ないと言い切れるものではないと思います。私の中の原発安全神話は完全に打ち砕かれてしまいました。原発も原爆も放射能の恐怖という点では同じです。

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