1. おいたち

私は1931年1月24日、己斐(現在の広島市西区己斐中)で、父木村幸造と母常子の次女として生まれました。長く自分は長女だと思っておりましたが、後に私が生まれる7年前に、もう一人娘が生まれ、生後4ヶ月の時病気で亡くなっていたと聞きました。私の下には弟が3人、3歳下、6歳下、10歳下におりました。私は子どものころから遊ぶ時もいつも弟を負ぶっていた記憶があります。不満を口にすると、祖母から「下の子の世話をすると幸せになれるんだよ、」と言われたものです。

母はおとなしい人で、自分の意見などを言うことはありませんでした。いつも周りの人の言うことに従っていました。父は信心深い人で、毎日朝夕にはお経をあげていました。私たちは父の後ろに座って父のお経を聞くというのが習慣になっていました。父は家具職人で、タンスや仏壇、本箱などを作っていました。職人もたくさん使っていました。私にとってはとても優しい父で、何か困ったことがあると「おとうちゃん」と父の元に助けを求めに行きました。ところが男の子だからでしょうか、弟たちには厳しかったようで、悪いことをすると土間に座らされて井戸水をかけられたり、たたかれたりしていました。

幼いころには、「お嫁さんになりたい。」と言っていたそうですが、小学5年生の時に担任だった先生がとてもいい先生で、それ以降は学校の先生になることが夢になりました。当時の女の子の将来の夢は、看護婦になりたいというのが一番多かったようです。私の学校では二年ごとに担任が代わっていました。1年生から4年生まで受け持ってくださった二人の先生は、えこひいきが激しくあまり好きではありませんでした。しかし5年生になって担任になってくださった男の先生は、どんな優秀な子でも、いたずらっ子でも分け隔てなく、時には厳しく、時には優しく接するような先生でした。ところがその先生は私が5年生の時に鉄道事故で亡くなられてしまったのです。私は男女一人ずつのクラス代表に選ばれ、お葬式に参列しました。6年生の時に、そのまま学校に残り、2年間の高等科に進むか、試験を受けて4年間の中学校(男子)、高等女学校(女子)、その他に進むかを決めなければなりませんでした。私は迷わず4年の女学校とその卒業後1年間の教員養成所を併設している安田高等女学校に進むことを選びました。

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