梶本 淑子 Yoshiko Kajimoto

伝えなければ過ちは繰り返される

2. 原爆投下時

1943年4月に安田高等女学校に入学しましたが、学校で勉強をしたのは最初の二学期間だけでした。しだいに戦局が悪化し、三学期からは私たち学生もあちこちの工場などに動員され、落ち着いて勉強をする時間はありませんでした。当初、寒い時にタバコの専売公社でタバコの葉を洗ったり、被服支廠で軍服のボタン付けをしたり、農家で稲刈りをしたりとあちらこちらに派遣されました。農家に動員されると米のおにぎりが貰え、とても嬉しかったことを覚えています。今ではどの家庭でも米を主食として食べていますが、戦時中はたいへん貴重で一般家庭ではほとんど手に入りませんでした。

1945年の年初あたりから、2年生、3年生、4年生の各学年から1クラス(30名)ずつ約90名が、三篠にある飛行機のプロペラの部品を作る「高密機械」という軍需工場に毎日行くようになりました。私は朝早く己斐の自宅を出て、1時間以上歩き、工場に通いました。8時前には作業は始まっていましたので、おそらく7時前には自宅を出ていたと思います。作業は動弁カバーにするための鋳物を、ヤスリで削ることでした。当時は鉄が不足しており、鋳物が使われていました。軍手は支給されていましたが、素材がスフですぐにすり切れてしまいました。そのため手がこすれて痛むのですが、手を休めようとすると、監視していた従業員に竹の棒でたたかれました。柱には「増産」と書かれた紙が貼られていたことを今でも覚えています。学徒動員の歌に「花もつぼみの若桜 五尺の命ひっさげて 国の大事に殉ずるは 我ら学徒の面目ぞ」という歌詞がありますが、ちょうど身長が5尺(約150センチ)ほどだった私は、まるで自分のことを歌っている歌だと思ったものです。

私たちが働いていたのは、爆心地から2.3キロのところにある木造2階建ての大きな工場で、敷地内には同様の建物が11棟あり、その一番北側にありました。秘密の軍需工場だったため窓も大きくありませんでした。中は扇風機もなく、真夏の暑い時でしたので蒸し風呂のような熱気でした。

8時15分、突然窓の外で海のようにきれいな青い光がサーと流れました。尋常ではない光に、日頃から訓練されていたように、両手の親指で耳をふさぎ、中の3本の指で目を覆い、小指で鼻をふさぎ、機械の下にうずくまりました。その時ドーンという凄まじい音がし、工場の土間が浮き上がり、私も一緒に吹き上がったのです。私は気を失いました。周りの「助けて~。」という声に我に返った時には、二階建ての建屋は粉々に崩れ、屋根瓦や柱、梁、機械などのガレキが積み上がっていました。私は肩のあたりまでガレキに埋まっていて、辛うじて手が動かせるような状態でした。あたりは真っ暗でした。私は自分がなぜこんな暗くて窮屈なところにいるんだろうと不思議に思いました。少し目が慣れてくると、手の届くところに1本の材木と足が2本ヌッと出ているのが見えました。生きているのか死んでいるのか、いったい誰の足なのか分かりませんでした。「死なないで!」と叫びながら懸命に足を引っ張りました。するとその声で意識が戻ったのか、「お母さん助けて!」という声が聞こえたのです。驚いたことに、私から遠く離れたところで作業をしていた仲良しの文子さんだったのです。二人共吹き飛ばされて、偶然同じところに落ちていました。

普段から爆弾が落とされたら、すぐに火事になるから建物から出る様に訓練を受けていましたので、私たちはお互いの服を持ち合って、ガレキと化した工場から一刻も早く出ようとしました。文子さんは片方の腕に、骨がむき出しになるほどのひどいケガを負っていました。私には見えませんでしたが、文子さんが、「あっちに明かりが見える。」というので、その方向に向かって、行く手をふさぐガレキや機械を揺すったり動かしたりしながら這うように進んでいきました。ようやくはっきりと明かりが見え、もうこれで出られると思った矢先、今度は木舞壁に阻まれてしまいました。木舞壁というのは、土壁の下地にするため、細い竹を格子状に編んだものです。私はなんとかその壁を素手で破り、文子さんを連れて外に出ました。火事場のバカ力とでもいうのでしょうか。今思うと、どうやって縄で組んである竹の壁を破ったのか、不思議でなりません。外に出ると、見慣れた工場の建物も、周りにあった民家もすべてぺちゃんこに潰れ、町中が真っ平らになっていて、何の音も聞こえませんでした。あたりは薄暗く埃などが渦を巻いていました。臭いはひどく、赤土の臭いと魚の腐ったような臭いが混ざったような感じでした。

Share