梶本 淑子 Yoshiko Kajimoto

伝えなければ過ちは繰り返される

5. 学校へ戻る

11月の初めに友人が、12月から学校が再開されると伝言板に貼ってあったと知らせてくれました。私たちの学校は、当時広島城の北側にあり、現在の安田学園所在地より爆心地に近いところにありました。校舎は原爆でつぶれてしまっていたので、とりあえず船越小学校の講堂に集まるようにということでした。後で知ったところによると、安田女学校では、原爆で亡くなられたのは、教師13名、学生315名だったそうです。(安田女学校教員生徒慰霊碑より)

学校に戻るといっても、授業が再開されたわけではありませんでした。学園は、戦争中工兵隊が兵舎として使っていた建物を買い取りました。私たち学生は、大工さんたちに指導を受けながらその建物を修繕することになりました。来る日も来る日も大工仕事をしました。戦争中は工場で働き、戦後は大工仕事ばかりの学校生活でした。戦後の第一期生は馬小屋で卒業式をしました。作業中にガレキの中から兵士の死体が出てきたこともありました。大工仕事以外では、当時運搬手段となっていた馬車の後をついて糞を集めることもやりました。校庭に作った畑の肥料にするためです。ようやく授業が再開されたのは、多分冬だったと思います。教室の窓にはまだガラスも入っていませんでしたから、とても寒かったことが記憶に残っています。教科書もガリ版刷りで先生達が作ってくださっていました。そのころには男の先生たちも復員してこられ、次第に本来の学校らしくなりました。

ところが、1947年のお正月が過ぎたころ、それまで自宅だけでなく親戚の家の修理にも奔走していた父が、疲れたと言って寝込むようになりました。そして1月23日、動けなくなって、たった一週間で亡くなってしまいました。亡くなる3日前には大量に血を吐きました。その時は栄養失調か結核だったのかと思いましたが、もしかしたら原爆症だったのかもしれません。近所でも、それまで元気で、原爆でケガなどもしていなかった大学生が、突然同じような症状で亡くなられていました。父が最後に私に言い残したのは、「弟たちを頼む。」という言葉でした。

私が入学した当時は、高等女学校で4年学んだ後、教員養成所に進むことになっていました。ところが3年生の時に戦争が終わり、教育制度が6-3-3制に変わり、教員養成所も廃止されてしまいました。ほとんどの学生は、当初の予定通り4年で学校を去っていきました。私はちょうど父が亡くなったばかりの時で、4年で卒業すべきか、あと一年続けるべきか悩みましたが、父が残してくれていた家具や仏壇などを売り、なんとか生活できると知り、もう一年学校に残ることにしました。母は私たち子供4人を養うために、醤油の行商を始め。私が卒業するまで続けてくれました。

5年で学校をやめるという約束でしたが、6-3-3制の下では、あと一年在校しなければ高校卒の資格が得られないため、学校の先生達はもう一年学校に残るように勧めて下さいました。教務長がわざわざ自宅に来られ、授業料も免除するから何とか私を学校に通わせてくれるように母に頼んでくださいました。しかし母は生活費を稼いで貰わないと困るので、学校には行かせられませんと決して首を縦に振ってくれませんでした。私はその時は悲しかったですが、教務長が帰られる時、その後ろ姿が見えなくなるまで涙を流しながら見送っていた母を見て、何も言えなくなりました。

生まれた年に満州事変があり、小学校に入学した年に日中戦争が始まり、5年生になると太平洋戦争が勃発し、女学校3年生の時に原爆が投下され、私の子供時代はずっと戦争ばかりでした。

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