梶本 淑子 Yoshiko Kajimoto

伝えなければ過ちは繰り返される

6. 苦しい生活

私は1948年の3月に学校を卒業しました。ちょうどその時期に、叔母夫婦が本通りに衣料品店を開店し、私はその店で働き始めました。ところが私が就職してすぐに今度は母が脳梗塞で倒れたのです。その前から腹膜炎を患っていたようで、お腹に腹水がたまり腫れていて、体調はすぐれなかったようでした。おそらく父の死後、かなり無理をしたのでしょう。また脳梗塞の後遺症で体に麻痺が残ってしまいました。母はその後1967年11月に亡くなるまで20年間にわたって日赤病院で入退院を繰り返しました。入院費が尽きると退院し、悪化すると入院するという繰り返しでした。退院したからといって体調がいい訳ではなく、家で横になっているような状態でした。

私は叔母夫婦の店で貰う月9,000円の給料のうち4,000円を病院に支払い、残りの5,000円で弟3人との生活をしなければなりませんでした。それはとても食べ盛りの男の子3人を食べさせるような額ではありませんでした。食べるものがないときは、何も食べずに寝ていました。上の弟は中学生、下の弟二人はまだ小学生でした。もし私一人なら、死んでいたかもしれません。祖母も心配して、時々食べるものを持ってきてくれました。叔母に給料を前借りしたこともありました。前借りすると、必ず翌月には給料から差し引かれていました。こうやって日々を何とか食いつなぎ、3人の弟たちを無事中学卒業させることができました。弟たちはそれ以降それぞれ定時制高校に入り、昼間は働き自分の力で生活してくれるようになりました。

つらかったのは、近所に3人いた同年代の子が誰も生きて帰って来ず、その親たちから「なんであんただけが帰ってきたんか。」と何度も言われたことでした。まるで生きていたことが罪であるような気持ちにさせられたものです。

衣料品店で働き出してから、何度となく縁談が持ち上がりましたが、被爆者だと言った途端断られるということが続きました。何度かそのような経験をすると、次第に縁談話は自分から断るようになりました。当時世間では「原爆病はうつる」「原爆病は遺伝する」「被爆者は子供が産めない」「生んでも障害者だ」「被爆者は早く死ぬ」などといった噂がまことしやかにささやかれ、被爆者はひどい差別を受けていました。

私が22、3歳ごろに叔母夫婦の店に、梶本一男さんという若い男性が就職してきました。叔父や叔母は、彼は誠実でいい人柄だから結婚してはどうかと勧めてくれましたが、私はあまり乗り気ではありませんでした。しかし被爆者であることに偏見を持っていない彼は、最後のチャンスだから結婚しなさいと強く勧められ、一番下の弟が中学を卒業するのを待って、1957年、26歳の時に結婚しました。嫁入り支度は叔母がしてくれました。その後二人の娘に恵まれました。

就職したあたりから私自身の体調もよくはありませんでした。その当時は知りませんでしたが、今思えば原爆ブラブラ病と言われている原爆症の症状によく似ていました。毎日仕事に行くのがとても辛かったです。病院に行っても原因は分かりませんでした。1957年に「原子爆弾被爆者の医療に関する法律」が制定され、私も年に二回健康診断に行くようになりました。検診に行く度に、原爆の影響からか白血球数が高いと言われています。また1960年に下の子が生まれた頃から歯がグラグラし始めました。被爆後続いた歯茎からの出血で、歯茎がずいぶん後退してしまっていました。とうとう55歳で総入れ歯になってしまいました。風邪も年中ひいています。1999年には胃にガンが見つかり手術をしました。2016年には脳腫瘍も見つかりました。現在は経過観察中です。最近は皮膚癌と大腸癌が疑われるような症状があり、近々検査を受けることになっています。

Share