梶本 淑子 Yoshiko Kajimoto

伝えなければ過ちは繰り返される

7. 証言を始めたきっかけ

夫は長く腎臓の透析を受けていましたが、2000年3月2日にとうとう帰らぬ人となってしまいました。四十九日の法要の後で、突然孫娘が、
「おばあちゃん、これからどうするの?被爆証言をしてみない?原爆を受けた人にしかできないことだよ。」
と言ったのです。それまで証言をすることなど考えてもいませんでした。理由を聞くと、彼女が通っていた高校で、二人の被爆者が証言をされ、原爆のことを知らない自分たちの世代は、もっと知らなければいけないと感じたそうなのです。その当時、偶然にも娘婿は広島市の平和推進課に勤務しておりました。その婿が当時の資料館の館長であった高橋昭博さんに私の話をしてくれたのです。私はまだ人前で話すほどの覚悟もありませんでしたが、言われるがままに被爆体験の原稿を書きました。そして高橋館長初め5名の方の面接を受けました。その時でさえ、足は震えていました。面接に合格し、翌年3月から語り部として活動することになりました。それでもなかなか決心はつきませんでした。

初めての講話は、呉の小学生でした。子供たちは熱心に身を乗り出して私の話を聞いてくれました。そのことが私の背中を押してくれ、その後語り部として続けてこられました。子供に話す時には、できるだけ平易な言葉を使うようにと指導を受けました。ですから聞いてくださる方の年齢に合せてお話するように心がけています。子供たちには、「満州事変」「トタン」「火鉢」「学徒動員」「疎開」といった言葉は使わないようにしています。

活動を始めて一ヶ月後くらいに、アメリカの高校生たちに話をする機会をいただきました。質疑応答の時に、一人の男の子が、
「アメリカを恨んでいますか?」
という質問をしました。私は、
「最初の10年くらいは憎らしく思っていましたが、今は恨んでいません。」
と答えました。そうすると彼は深々と頭を垂れ、
「ごめんなさい。」
と言ったのです。原爆に何の責任もない、こんな若い子が心から謝ってくれている姿を見て、私の中からあらゆる恨みは消え、全て許せるという気持ちになったのです。

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