笠岡 貞江 Sadae Kasaoka

一度に両親がいなくなった寂しさは、とても言い表すことはできません

1. おいたち

私は1932年9月20日に、父品次郎と母キチの7番目の子として生まれました。私の上には男の子2人、女の子4人おり、私の下には弟が一人いました。私のすぐ上の姉は、4歳の時に事故で亡くなり、兄弟は7人で、一番上の姉とは17歳の年の差があります。家には祖母もいて、10人という大家族でした。家は、当時としてはたいへん大きく、江波本町(広島市中区。爆心地から3.5km)にありました。今では家が建ち並んでいますが、当時、家はまばらでした。祖母は、長男がアメリカに移住し、デパートをいくつか経営するほど成功を収めており、その長男(父の兄)からの送金で、私たちが住んでいた大きな家を建てるなど、たいへんなお金持ちでした。

両親は麦や野菜を栽培したり、冬にはノリを作ったりしていました。父はたいへん世話好きで人望の厚い人で、町内会長をしていました。また出征していく若い兵士を、心の慰めになればと、戦地に赴く前日に家に泊めてあげるなどもしていました。母は毎朝、畑でとれた野菜をリヤカーに乗せて市内中心部に売りに行っていました。当時はどの家でもそうですが、上の子が下の子の世話をしていたものです。学校へ行くときも赤ちゃんを負ぶって行くのは普通のことでした。両親は日々忙しくしていて、子供達と一緒にご飯を食べるということもありませんでした。

私は1939年4月に、江波小学校に入学しました。一番驚いたのは、先生のほとんどが女性で、男性は若い代用教員か年配の人だけだったことです。学校はあまり好きではありませんでしたが、友達とすくも(籾殻)を入れておく倉庫で遊んだことは、楽しい記憶として残っています。

私が小学2年生の時、15歳年上の長兄・節雄が招集され出征していきました。今回が二度目の招集で、招集地は呉でした。2年後、その兄がソロモン諸島海域で乗っていた航空母艦龍驤がアメリカ軍に爆撃され、戦死したとの「戦死公報」が届きました。当時、兵士が戦死すると「名誉の戦死」と言われていましたので、その葬儀が小学校の講堂(だったと思います)で、町内会総出で行われました。私たちのような遺族の家には「誉れの家」という標識が掲げられました。両親は、長男を亡くしたので、今思えばどれほど悲しかったことでしょう。しかし当時は軍人が国のために戦死することは、名誉なこととされていたので、決して人前では涙を見せませんでした。

兄の葬儀

私は兄の法事をする時に、米農家をしていた姉・純子の嫁ぎ先まで米を一人で取りに行くことになりました。当時米は、政府によって厳しく統制されていて、配給でしか手に入りませんでした。また憲兵が厳しく監視していたので、大人が米を持ち歩いていると捕まる可能性がありました。両親は、子供の私なら憲兵に気づかれることなく、米を手に入れることができると考えたのでしょう。私の家では麦しか作っていませんでした。私は背中にリュックサックを背負い、たった一人で汽車に乗り、可部線の安芸飯室駅まで行き、そこから山道を何時間も歩いて姉の婚家があった久地(現・広島市安佐北区)まで行きました。当時の子供はよく歩いたものです。姉はカナダに移住していて、そこにはいませんでした。米はたいへん貴重でした。ノリ10枚を一束にしたものを1帖と呼んでいましたが、10帖のノリで1升(約1.5kg)のお米と交換してもらえました。

戦争中は食べる物がありませんでした。6年生くらいから校庭が畑になり、私たち子供も野菜を栽培するようになりました。当時の子供は、あらゆることに我慢を強いられていました。お腹がすいていても、「ほしがりません、勝つまでは。」と教えられていました。江波には「江波団子」と呼ばれていた団子がありました。ヨモギと米の糠を混ぜて丸めたもので、決して美味しいものではありませんでした。それでも食料の代用として食べられるだけましでした。日本各地が米軍機に空襲されていると聞いても、私たち子供は、日本は正しい戦争をしているから、必ず神風が吹いて勝つと信じて疑いませんでした。

1945年4月に、私は学校の先生になることが夢でしたので、進徳高等女学校に入学しました。入学してから1ヶ月ほどは、数学、国語、作法、武道などの授業がありました。作法というのは、ふすまの開閉の仕方や畳の上の歩き方などの授業で、武道というのは竹槍の訓練でした。しかし、その後は3~4年生は軍需工場へ、私たち1~2年生は農家の手伝いや建物疎開に動員されるようになり、勉強をした記憶はありません。夏休みに入っても毎日作業に出ていました。建物疎開というのは、空襲に遭った時に重要な建物などに延焼しないように、その周りにある建物を壊し、空き地を作ったり道路の幅を拡張したりする作業のことです。

このころには、10人いた家族のうち、長男は戦死、三人の姉はそれぞれ結婚し、長女・純子はカナダに、次女・吉恵は神戸に、三女・シナエは五日市(現・広島市佐伯区)に、次男・吉太郎は商船学校に入学し神戸に、弟・才二郎はこの年、5年生になって集団疎開で県北の三次へ行っていました。空襲を受けそうな都会に住んでいる小学校3年生から6年生の子供達は、親戚が田舎にあればそこに預けられ、いない子供達は先生に連れられて田舎のお寺や神社に疎開しました。弟に聞くと毎日食べる物も十分になく、子供達は夕方になると、「お腹がすいた。」「帰りたいよ。」と泣いていたそうです。 自宅には祖母(90歳)、父(52歳)、母(49歳)と私(12歳)の4人だけになっていました。

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