笠岡 貞江 Sadae Kasaoka

一度に両親がいなくなった寂しさは、とても言い表すことはできません

2. 8月6日

この日、宮島の厳島神社では、日本三大船神事の一つとして有名な管弦祭が催される予定でした。江波は、元禄14年(1638年)から阿賀(呉市)とともに管弦船を引く役目を担ってきました。江波では、お祭りでの役目を無事に終えて戻ってくる漁師さんたちのために、お祝いの祭りが行われることになっていました。私の家でもごちそうを作ることになっていて、町中の人たちがとても楽しみにしていました。

両親は、市内中心部の雑魚場町(現・広島市中区国泰寺町。爆心地から1キロ)にある知人の家が、まもなく建物疎開で倒されるというので、家を空ける手伝いをするために朝早くから出かけていました。早く帰宅してごちそうを作らなくてはいけないし、真夏で日が昇ると暑くなるということもあったかと思いますが、7時頃鳴った空襲警報で、私が防空壕に避難した時にはすでにいませんでした。

私は前日まで建物疎開に出ていましたが、6日からは広島駅の近くにある工場に動員されることになっていました。ところが偶然にも6日が月に一度の休電日で工場はお休みになり、祖母と家にいました。7時半頃空襲警報が解除になり、私は家に戻り朝食を食べ、後片付けをし、洗濯をして外に干しに出ていました。

ちょうど干し終わり、縁側に続く部屋に2~3歩足を踏み入れた時でした。部屋にある幅が2.5メートルほどもある大きなガラス窓の外に、日の出にオレンジ色を混ぜたようなきれいな光が見えたのです。その瞬間、ガラスが粉々に壊れ、私は風圧で壁ぎわまで飛ばされました。よく原爆のことを「ピカドン」と言いますが、私は「ドン」という音は聞こえませんでした。私には「ドゥッ」というような音でした。私はそのまま気を失ってしまいました。

閃光 絵:小川美波

ふと我に返って、手が頭に触れるとヌルッとしたものに当たりました。血が流れていました。痛みは感じませんでした。たいへんなことが起こったと思い、「おばあさん、防空壕へ行くよ!」と祖母を大声で呼びました。ヌッと現れた祖母はケガもなく無事でした。二人で町内会の防空壕へ行きました。そこにはすでに2~3人の人がおられました。

誰も何が起こったのか分かりませんでした。ある人は「ガスタンクが爆発したんかのう。」と言っていました。しばらくして外に出てみました。私は自分の家が爆撃されたものと思っていたのですが、周りの家の中にはぺしゃんこになぎ倒されている家もありました。私の家は頑丈だったせいか、傾いているだけでした。それでも瓦や壁土はあたりに散乱していました。

9時頃になって、近所のおじさんが中心部(爆心地から2キロほどのところ)から戻ってこられ、「広島はおおごとじゃ。ピカッと光ってみんなやられた。」と言われたのです。それを聞いて、急に両親のことが心配になってきました。そのおじさんは、服から出ている部分の皮膚がズルッと剥けて垂れ下がり、まるで桃の皮をむいたようにピンク色になっていました。彼は数日後に亡くなられました。その話を聞いた近所の同級生の親たちは、建物疎開などに動員されている自分の子供達を探しに中心部に向かいました。私は両親が心配だったので、親戚のおじさんに探してくれるように頼みました。おじさんは二時間くらいして戻ってきて、火災が激しいので中心部には行けなかったと言われました。

被爆当日初めて見た被爆者 絵:向田紗希

防空壕のあたりにいると、それまで晴れていたのに、急に雨が降ってきました。洗濯物を干していたことを思い出し、大急ぎで家に戻りましたが、干したはずの洗濯物がどこかに飛んで行ってありませんでした。雨がやんで外に出たとき、偶然、庭石のくぼみに貯まっていた水が目に入りました。水が透明ではなく、黒かったので不思議でした。降っている時には黒い雨とは思いませんでした。

夕方になって、神戸の兄が帰ってきました。たまたま休暇で広島に帰ってきたそうです。乗っていた列車がその朝、広島駅の手前で止まってしまい、そこから歩けるところを探しながら帰って来たということです。

兄が帰ってきてまもなく大河(現・広島市南区)の親戚が船でやってきて、父がその親戚の家にいるから迎えに来てくれと知らせてくれました。父は消防団の仕事をしていましたので、風向きで東にある大河の親戚の家に逃げた方が安全だと考えたのでしょう。途中、宇品にある陸軍共済病院(現・広島県立病院)で治療してもらおうと、立ち寄ったそうです。ところが、大勢の被災者が押し寄せたため、少しでも助かる見込みがある人を優先し、手の施しようがないと判断された者は、相手にもしてもらえなかったそうです。父は治療を諦めてどうにか親戚の家までたどりつきました。兄はすぐに家にあった荷車を引いて大河まで行ってくれました。

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