笠岡 貞江 Sadae Kasaoka

一度に両親がいなくなった寂しさは、とても言い表すことはできません

5. 被爆証言を始める

孫が通っていた己斐小学校では、2000年に、5,6年生がグループに分かれて、地元の被爆者30人から話を聞き、自分たちで絵を描き、文章を作り、それを劇にして発表するという催しが行われました。私も地元の被爆者として招かれ、初めて自分の被爆体験を話しました。己斐小学校は原爆投下後、仮の救護所になり、市内各地から逃れてきたり、連れてこられたりした被災者が足の踏み場もないほどにあふれていたそうです。約2000体の遺体が、校庭に掘られた溝で荼毘にふされ、埋葬されました。

発表会にも招かれ、小学生だというのに、とても上手に発表したことに私は驚きました。子供達は被爆者の証言を聞いて、ちゃんと心で受け止めてくれ、それをこんなに上手に伝えることができるのに、被爆者である自分がこのまま黙っていてはいけないと思いました。その後しばらくして、広島市の広報紙に証言者募集の記事が目にとまりました。それまでも同様の記事は掲載されていたのでしょうが、気にもとめていませんでした。母子会(片親で子供を育てている人たちの会)で出会い、親しくしていた渡辺美代子さんに相談してみました。渡辺さんは、すでに証言活動をされていましたし、被爆者や子供達が描いたリボンをつなげ、原爆ドームの周りを囲む「平和のリボンの会」を主宰しておられました。私もその活動に何度か参加させていただきました。

仕事をしていましたので、2005年に退職するまでは市内の小学校に出向いて話をしたり、広島平和記念資料館で修学旅行生に話をしていました。退職してからは本格的に取り組み始めました。主に資料館で年間30回ほど証言しています。そのうち、修学旅行生などにお話をするのが、20回ほどで、海外の方にお話するのが10回ほどです。また県外の学校からお招きがあればでかけます。今まで北海道から沖縄まで多くの都道府県に行きました。初めて海外へ出たのは、2013年で、中国の北京大学からお招きをいただきました。その後、アメリカ、トルコ、ベルギーなどにも行きました。

アメリカで証言をしたときに、一人の女の子が、「原爆がこんなに恐ろしいものだとは知りませんでした。私の国がこんなにひどいことをしてごめんなさい。」と言って泣き出したのです。誰もキノコ雲の下で何が起こったかついては知らないのは当たり前です。だから私たち被爆者はこれからも語り続けなければなければならないと思いました。アメリカに行くまでは、アメリカが憎いと思っていました。けれども次第に、憎むべきは原爆だと気持ちが変わってきました。

海外の人に証言する

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