1. 生いたち

私の旧姓は煙井と言います。煙井という苗字はよく「珍しいね。」と言われます。明治に入り平民も苗字を持つことが義務づけられた時、(1875年の平民苗字必称義務令)一家は当時住んでいた可部南の中島村(現・広島市安佐北区)で煙草農家をしていて、煙草から煙の字を、自宅の井戸からいい水が出ていたことから井の字をとって、この苗字をつけたと聞きました。

村は耕地が少なく、土地も痩せていたため煙草の栽培くらいしかできず大変貧しかったそうです。祖父母は結婚してまもなく、1902年ごろ他の村人達と一緒にハワイに契約移民として渡りました。そして長男・義雄(父)が生まれ、彼が学齢期になる前に帰国しました。ハワイではある程度の財を築き、帰国後は中島村には戻らず、皆実町(現・南区皆実町)に家を建て住居を移しました。父はこの家で育ちました。

祖父母、ハワイでの記念写真 1901年

父は母・美津と結婚後も祖父母と共にここに住んでいました。祖母はハワイにいるときにアメリカ人家庭のメイドをしていたそうで、ホットケーキを焼いてくれたり、コーヒーを飲んだりと当時としてはハイカラなおばあさんでした。

私は1929年11月に長女としてこの家で生まれました。私の2歳下に次女・照子、8歳下に双子の詢子と陽子が生まれ、子供は女の子ばかり4人でした。父は宇品造船所で造船技師として働き、後に工場長をしていました。母は山中女学校を卒業し、結婚後、家から近く、保育所も併設している被服支廠で経理の仕事をしていました。被服支廠は陸軍三廠の一つで、軍服や兵隊さんの下着、靴などを作っていました。陸軍三廠には被服支廠の他、兵士の食料品や馬の飼料などを調達し戦地に送る糧秣支廠、兵器支廠がありました。

父が造船所に勤めていたことから、私は船が進水するときには見に行っていました。くす玉が割られ、酒が入った樽の鏡割りもあり、賑やかな進水式でした。また大勢の兵隊さんが沖に停泊している大きな船に乗るために、何隻もの艀(はしけ)で港から出て行くのを、子供達は日の丸の旗を振り、「バンザイ!バンザイ!」と言いながら見送っていました。船には兵隊さんだけでなく、犬や馬も乗せられました。犬はまとめてケージに入れられてクレーンでつるされ船に乗せられるのですが、馬は一頭ずつ胴体にバンドを巻かれ、つり上げられて乗せられていました。馬は自分たちが死地に向かうことを知っているかのように悲しげな声で鳴いていました。

被服支廠の軍人さん達 1930年代

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