切明 千枝子 Chieko Kiriake

平和はじっと待っていても来てはくれません

2. 軍国一色の子供時代

私の子供時代は、広島はまさに軍都と呼ぶにふさわしい町でした。1894年に日清戦争が勃発すると、大本営が広島城の傍に置かれ、天皇陛下も居住地を広島に移されました。その年に山陽線が広島駅まで開通し、2週間余りの突貫工事で広島駅から宇品港までの宇品線が敷設されました。全国から集まってくる兵士や物資は宇品線で宇品港まで運ばれ、そこから海外の戦地へと送られました。陸軍三廠は、この沿線上に建てられました。広島駅の北側には大きな東練兵場があり、騎馬兵の訓練が行われ、広島城の近くの西練兵場では歩兵の訓練が行われていました。

大本営跡

1936年、私は皆実小学校に入学しました。その翌年には日中戦争が始まり、子供達も戦争と無縁ではいられませんでした。上海や重慶など戦線で戦果が上がると、クラスごとに生徒達は隊列を組み、担任を先頭に小旗を振りながら学区内をパレードしました。その時に歌っていたのは、「進軍の歌」でした。

♫雲湧き上がるこの朝(あした)
旭日のもと敢然(かんぜん)と
正義に立てり大日本
取れ膺懲(ようちょう)の銃と剣

月に一度の興亜奉公日(戦意高揚のために設けられた日)には、日本軍の必勝や兵士の武運長久を願うためにお寺や神社などにクラスごとにお参りに行っていました。また毎日のように御幸橋から宇品に続く電車通りでは、戦地に向かう兵隊さん達の行進があり、私達子供は旗を振って見送ったものでした。

出征兵士の見送りと別れ 原田華 作 広島平和記念資料館 所蔵

毎朝学校に着くと、校門近くにあった小さな建物、奉安殿に向かって最敬礼をしなければなりませんでした。奉安殿には、天皇・皇后のご真影(写真)と教育勅語が安置されていました。教育勅語は細長い桐の箱に入っていて、紫の布に包まれていました。それを式典の度に校長か教頭が恭しく掲げ運んでいました。天長節(4月29日、天皇誕生日)や紀元節(2月11日、建国記念日)などの祝日には、子供達も式服を着て学校に行っていました。また朝礼は毎朝ありました。校長先生や教頭先生が「宮城遙拝!」と号令をかけると、子供達は「直れ!」という声がするまで、両手を膝より下に垂らし、皇居がある東を向いてお辞儀をしなければなりませんでした。そのようなおじぎの仕方は最敬礼と呼ばれていました。雨の日も講堂で同じ事が行われていました。

奉安殿の近くには、二宮金次郎の像がありました。背中には薪を背負い、右手に本を持っている少年の像でした。二宮金次郎は江戸時代の終わり、貧しい農民でありながら苦労して勉強し武士になったと言われています。そのことから勤勉と忠孝の象徴として1910年ごろから急速に広がり、各小学校に建てられるようになりました。級友の男の子が像に登り、本に何が書いてあるか覗いたところ「忠孝」と書いてあったそうです。戦後は徐々に撤去されました。

1940年には町内会の下部組織として隣組を組織することが義務づけられました。隣組は10戸前後で構成され、動員や配給、防火活動などを迅速に行うことを目的としていましたが、相互監視の役割も果たしていました。私が住んでいた皆実町は宇品に近いこともあって、悪天候などで出航が遅れた船に乗る予定だった兵士を泊めることがよくありました。泊める人数の割り当ては隣組が行っていました。隣組はすべての家の間取りも把握していたのです。また隣組で引き受けた兵士達の食事の世話もしていました。戦争が始まった当初は、泊まる兵士はみんな若かったですが、次第に中高年の兵士が増えてきて、幼かった私は、こんなおじいさんが戦って勝てるのかなあと思ったものです。学校で先生に「おじいちゃんみたいな兵隊さんで大丈夫?」と聞き、こっぴどく叱られたのを今でも覚えています。

皆実小学校3年生 3列目左端 1938年

1941年4月、私が小学校6年生の時、全国の小学校が国民学校と名称が変更されました。教育方針は、教育勅語に則り、国家主義の色彩の強いものでした。校長先生が、「君たちはもう児童でも子供でもない。一人の国民として国のために天皇陛下のために命を捧げよ。」と訓示されました。私は「ささげる」という言葉を、物を目の高さより上に掲げ持つことだと思っていましたので、「命をささげる」という言葉が理解できず、先生に聞くと、「天皇陛下のために死ぬことだ。」と言われました。それまでも軍国教育を受けていましたので、その言葉を聞いても、何も不思議には思いませんでした。

日米開戦の少し前だったと思いますが、叔父(母の弟)に召集令状が来て、我が家で盛大に壮行会が開かれました。私が廊下に出ると、父と叔父がひそひそ話をしていました。父が「どんなことがあっても生きて帰って来い。」と言っている声が聞こえ、軍国少女だった私は、父のことを非国民だと思ったものです。

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