切明 千枝子 Chieko Kiriake

平和はじっと待っていても来てはくれません

3. 日米開戦

1941年12月8日、午前8時に大切な放送があるからとラジオを持っていた我が家に、近所の人達も大勢集まってラジオの前に座って待っていました。すると「臨時ニュースを申し上げます! 臨時ニュースを申し上げます!」というアナウンサーの声が繰り返し流れてきました。そして「帝国陸海軍は、本8日未明、西太平洋においてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり。」と「宣戦の詔勅」が読み上げられたのです。まわりにいた人達はみんな「やっちゃれ、やっちゃれ!!」「バンザイ!!」などと大変興奮していましたが、父だけは暗い顔をしていました。顔色が変わった父を見て、私は、やっぱり父は非国民だと確信したものです。

父はハワイ生まれで、幼いころには帰国していましたが、大人になってからも仕事の関係で米本土の西海岸に何度か行っていました。アメリカが物量、資源などどれほど豊かな国か、日本では太刀打ちできないような国だということをよく分かっていたのでしょう。また自分の生まれた故郷と戦争をするということに複雑な思いを抱いたのかもしれません。

太平洋戦争が始まると、それまで小旗を振って兵士達を見送っていたのに、夜にひっそりと兵士を乗せた船が出て行くようになりました。また白い布に包まれた小箱を胸の前にぶら下げている女性を見かけるようになりました。宇品線では時々窓がない貨車が通って行くのですが、それは兵士を運んでいる貨車でした。そして一般の人々は宇品港の近くに入ることができなくなりました。港近くへ行くとスパイと間違えられ警察に捕まりました。

1942年、私は広島県立第二高等女学校(以下県女)に入学しました。この学校では、各学年に西組と東組の二つのクラスがありました。1年生の時はまだ英語の授業がありましたが、2年生になると英語は敵性語ということで禁止されるようになりました。ある日、学校に英語の教科書と文法書を持って来るように言われ、集められたそれらの本は焼却炉に放り込まれ、その灰は肥料にするため畑に撒かれました。それを見ながら私は涙が出ました。英語を教えておられた日系人の先生は、いきなり農業科を教えることになり、それまできちんと折り目のついたズボンと磨き上げられた革靴で授業をされていたのに、土にまみれて畑仕事をされるようになりました。とても気の毒に思いました。

また2年生になると深刻な労働力不足から女生徒も勤労動員されるようになりました。最初のころは陸軍三廠のどこかに配置され、あちこち配属が変わっていました。ところが3年生の秋になると通年動員が始まり、同じところでずっと働くことが義務づけられました。私達は広島地方専売局の煙草工場(現・南区皆実町)に派遣されることになりました。しかし、それまで陸軍三廠という兵隊さんの役に立てるところで働いていたのに、煙草工場と聞いてがっかりしました。学生数人が津山三郎校長先生のところに行き、もっと兵隊さんのためになるような仕事がしたいと直談判しました。すると校長は、「煙草は兵隊さんが疲れた時や弱った時に元気づけるために必要なんだよ。」と言われました。戦後になって、校長があえて空襲があっても爆撃される可能性が低い職場を私達のために選んで下さっていたと聞きました。

現存する陸軍被爆支廠

煙草工場では、一般市民向けの「金鵄(きんし)」、陸軍向けの「誉(ほまれ」」、海軍向けの「鵬翼(ほうよく)」という三種類の煙草を作っていました。学生達も週に数箱買うことができたので、私は父に頼まれてよく買って帰りました。兵隊さん達は戦地の酒保(物資部)で買っていると聞きました。煙草の販売は戦費調達のためだったと思います。私達の学校からは4年生全員の80~90人が動員されていました。

工場では、私はベルトコンベヤーで流れてくる煙草の葉と香料と砂糖を混ぜる仕事をしていました。毎朝7時前に工場に行き、作業服に着替え、朝礼に出ます。朝礼では工員も動員学徒も一緒でした。まず「宮城遙拝!」から始まり、仕事の指示などがありました。毎朝、朝礼でドボルザークのユーモレスクがBGMで流れていて、今でも忘れられません。8時前には職場に入り、一日中立ったままで仕事をしなければなりませんでした。そのせいだと思いますが、私は足首を痛めてしまいました。工場の医務局で見ていただき、関節リュウマチではないかと言われ、久保田外科医院を紹介してもらいました。そして毎週月曜日に朝礼が済んだ後、工場から宝町にある医院に通っていました。煙草工場で一番困ったことは、工場中で舞っていた細かい煙草の粉を吸い込んでしまうことでした。マスクをしていても入ってきました。毎日帰宅後、手ぬぐいで鼻の穴を拭くことが日課でした。

1944年末ごろから日本本土への空襲が本格的に始まりました。父が宇品の造船所にいたこともあって、兵隊を乗せて港から出帆した船が、瀬戸内海を出る前に爆撃され、兵士もろとも沈んでしまったという話も耳に入って来ました。外海に出る前に機雷に触れたり、潜水艦に砲撃されたりしたそうです。すでに制空権を奪われていたのでしょう。哨戒機が偵察のために低空飛行で飛んでいるのもよく見かけました。戦後、父は「宇品から出て行った船で、無事に戦地に着いた船はほとんどないと思う。」と言っていました。もちろんそんなことが戦争中に国民に知らされることはありませんでした。

1945年になると、日本中の都市が空襲を受けるようになりました。終戦までに約200都市が空襲を受けたとされています。それにもかかわらず広島市は一度も大規模な空襲を受けることはありませんでした。政府は都市部に住む子供たちを田舎に疎開させることを決め、広島でも4月から3年生以上の学童で、田舎に親戚がいる者はその親戚の元へ(縁故疎開)、それ以外の子供達は先生に連れられて田舎のお寺などに(集団疎開)疎開することになりました。我が家の詢子と陽子も4月から集団で疎開していきした。

私達学生は、毎日家から直接動員先に行き、仕事が終わると家に帰るという生活をしていましたから、学校に行くことはめったにありませんでした。時々電休日というのがあり、その日は電力不足で工場は休みになり、学生は学校へ行きました。学校に行っても勉強をすることはなく、竹槍の訓練や本物そっくりに作られた木製の手榴弾を投げる訓練、手旗信号の練習やツーツー、ツートンと無線電信を打つ練習などをしていました。生活のすべては戦争のためでした。

空襲に備えて防空壕が隣組ごとに作られました。防空壕と言っても、丸太を数本建てた上に板を置き、その上に30センチほどの土を載せ、そこに芝や草を植えたものでした。空襲警報が鳴ると人々は一斉に防空壕に駆け込みます。ところが私達女学生は警報が鳴ると学校へ集まるように決められていました。それは校舎の消火活動をしなければならないからでした。

遠くから学校に通っている学生には、「車」と書かれた丸いバッジが配られ、そのバッジをつけていない者は交通機関に乗れないことになっていました。乗っているのが見つかると学校に通報され、体育の先生からビンタをはられました。そのバッチを持っていない者は、どれほど遠くにいても、警報が鳴ると学校まで走って駆けつけなければなりませんでした。

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