切明 千枝子 Chieko Kiriake

平和はじっと待っていても来てはくれません

4. 私の8月6日

この日は月曜日で、私は朝礼の後、2時間の外出許可を得て、久保田外科医院に行くために工場を出ました。そして京橋川沿いに比治山橋(爆心地から1.9 km)のたもとまで歩きました。朝から雲一つない青空が広がり、太陽が照りつけて暑かったので、陰に入って少し休むことにしました。見ると川に降りる雁木の傍に小さな木造の船倉庫がありました。その倉庫の軒の下に入った瞬間に、まわりがピカッと光ったのです。まるで太陽が目の前に落ちたような強烈な光でした。「あ!?」と思った次の瞬間、凄まじい爆風が来て私は地面に叩きつけられ気を失ってしまいました。どれほど時間が経ったのかは分かりませんが、気がつくと体の上に重いものが覆い被さっていて身動きができませんでした。「誰か助けて~。」と一度だけ声を出したのですが、辺りはシーンとしていて、誰も来てくれませんでした。仕方なくのしかかっていた材木の合間をくぐり抜けながら何とか外に出ました。

朝、あれほど晴れていたのに外は夜のように真っ暗でした。何事が起こったのか分からず、呆然とその場に立ちすくんでいました。少し明るくなってきて、朝通ってきた方向を見ると、道路の両側の家々はぺしゃんこになっていました。目を京橋川の向こう側に向けると、町中がまっ赤な炎に包まれていました。

朝、飛行機が一機飛んでくる音は確かに耳にしました。けれども今までも何度も一機で来る敵機には慣れっこになっていました。大編隊の敵機がやってきて大量の爆弾を落とし、大きな町が火の海になったという話は聞いたことがありました。しかし今朝はたった一機の飛行機しか気づきませんでした。私は頭の中が真っ白になって何も考えられず、比治山橋のたもとにただボーと立っていました。すると橋の反対側から「ぎゃー!」と叫びながら大勢の人が走ってくるのです。制服を着ている男の子が多く、多分中学1年生か2年生くらいでしょう。その制服が燃えているのに、消そうともせずにただ走ってくるのです。橋の途中で欄干を超えて川に飛び込む子もいました。

私も何とかしなければと思い、煙草工場に戻ることにしました。しかしさっき通ってきた道は、両側の倒壊した家々のガレキで通れません。崩れた壁や屋根を乗り越えながら、やっと煙草工場に辿り着きました。ところが工場も壊れ、誰もいませんでした。みんな避難したのでしょう。再び呆然と立っていると、ガレキの下から同級生の那須さんが這い出てきました。額からは血が吹き出ていました。私は携帯が義務づけられていた救急鞄があることを思い出し、三角巾を取り出して那須さんの頭に巻いてあげました。すると那須さんが、「あなたもケガをしてるじゃない!」というのです。そして後頭部に刺さったガラスを抜いてくれました。その時初めて自分がケガをしていることに気づきました。後で分かったのですが、私は後頭部と首にガラスが刺さっていたのです。それまで痛いとは感じませんでした。

それから私達はあらかじめ避難場所として指定されていた黄金山に向かいました。途中、那須さんが真っ青な顔をして「私はもう歩けん!私はここにいるから、あなただけ行って!」と言いました。しかし那須さんを一人置いてはいけません。140cmの小さい体でしたが、彼女を負ぶって指定されていた黄金山の中腹にある小さな広場までなんとか辿り着きました。そこには、周辺にある数校の学生達も大勢避難していました。県女の学生は10人くらいいました。山から市内の方を見ると空がまっ赤に染まっていました。逆に宇品の方を見ると、空は青く、町はいつもと同じでした。その時の市内側の空を描いた平山郁夫画伯の絵が、広島平和記念資料館に展示されています。彼が通っていた修道高校も黄金山を避難場所に指定していたそうです。

お昼前に学校までみんなで戻りました。学校までの道路も壊れた瓦やガラスが散乱していました。私が通っていた第二高等女学校の校舎は、ガラスはみんな割れていて校舎は傾いていましたが、同じキャンパスの中にある広島女子専門学校(現・広島県立大学、以下女専)の校舎は倒壊を免れていました。

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