切明 千枝子 Chieko Kiriake

平和はじっと待っていても来てはくれません

5. 県女の生徒達と臨時救護所となった女専

この日、私達4年生は煙草工場(爆心地から2,28 km)に動員されていました。3年生は陸軍運輸部の造船工場などがあった金輪島(瀬戸内海の小さな島、宇品港から約1 km)に、1年生全員と2年生の半分東組は東練兵場(爆心地から約2 km)に、2年生の西組は雑魚場町(爆心地から1.1 km、現・中区国泰寺町)の建物疎開の手伝いに動員されていました。建物疎開というのは、空襲があったときに重要な建物への延焼を防ぐために、その周りの建物を壊し空き地にしたり、道路をひろげたりすることです。軍馬の訓練場だった東練兵場では、食料不足からそのほとんどがさつまいも芋畑にされていました。そして学生達が草抜きや水やりに動員されていたのです。

私達が学校に到着したのは、お昼前だったと思います。学校にはすでに何人かの4年生の学生が戻ってきていました。私達10人を含め、全員がケガをしていました。昼を過ぎた頃から、一人二人と重傷を負った人が学校に来るのですが、どの人も手を前に突き出しまるで幽霊のようでした。手指の先からは昆布のような黒いものが垂れ下がり、足からも同じような物が垂れ、それを引きずりながら学校に入ってこられました。最初の頃は先生がその垂れている物を手で引きちぎっておられましたが、次々やって来るので、私達にもハサミを持って来させ、切るように言われました。負傷者達は、ずるずるの皮膚を垂らしながら、火が燃えさかるガレキの中を何キロも歩いて来たのです。ほんとうにむごいことでした。

その負傷者の中に2年生西組の子達も混じっていました。私は妹が2年生だったこともあり、全員の顔も名前も知っていました。ところが帰って来る子はみんな顔が1.5倍くらいに腫れ上がり、髪の毛もチリチリで逆立ち、着ている物も焼けてしまって裸同然で、誰が誰なのか全く分かりませんでした。

全身火傷で学校へ戻ってくる下級生たち 岡田友梨 作 広島平和記念資料館 所蔵

6日に学校に戻ってきた西組の学生は5人でしたが、それ以外にもケガをした人や火傷を負った人達が次々と学校に避難してきました。学校には礼法室という礼儀作法やお茶などを習う畳20帖ほどの和室があり、爆風で粉々になったガラス片や倒れたふすまや障子などを掃除して、帰ってきた学生や避難してきた人々をそこに寝かしていました。ところがすぐにいっぱいになってしまいました。すると女専の先生が「物理化学室の実験台がちょうどベッドの大きさだから、そこに寝かせてあげなさい。そして口がきける間に名前を聞いて、名札を台の隅に押しピンで刺しておきなさい。」と言われました。私達は窓ガラスや試験管やビーカーなどのガラス片が散らばる部屋を掃除して、ひどい火傷やケガを負っている人達を寝かせて名前を聞き、名札を作りました。それでも次から次へと負傷者がやって来て、寝かせるところもなくなり、最後は廊下にゴザを敷いて寝かせました。

物理化学室で被爆女学生を手当する様子 西岡優 作 広島平和記念資料館 所蔵

先生が「この人達はひどい火傷を負っているから、空気に触れると痛いだろう。家庭科室に行って油を取ってきなさい。」と言われました。私達は家庭科室に行って、割れた食器類や調理器具が散乱する中、調理用の油を探しました。しかし何年も家庭科の授業が行われていなかったためか、一升瓶(1.8リットル)に入った真っ黒な古い油が4~5本しかありませんでした。その黒い油を塗ってあげるのですが、みんな全身に火傷を負っているので、油はすぐになくなってしまいました。そのうち陸軍船舶部隊の衛生兵が、一斗缶(18リットル)の油と亜鉛化デンプンを持って来てくれて、私達はそのデンプンと油を溶いて全身に塗ってあげました。するとまるで石膏の彫刻が並んでいるみたいになりました。

またウジ虫には閉口しました。火傷にハエがとまり、卵を産みウジがわくのです。ウジは血を吸って丸々と太っていました。「虫を捕ってください。」と言われ、一生懸命お箸でつまんで捕るのですが、とても間に合いません。羽化するのも早く、壁が真っ黒になるほどハエが発生していました。生きている人間にウジがわくのを私は初めて見ました。亡くなってもウジだけは元気に死体に這っていました。

そうこうしているうちに、一人、また一人と亡くなっていきました。亡くなる前はあれほど「お母さん、痛いよう~。」「熱いよ~。」と苦しみもだえていた人達が、亡くなると穏やかな顔になるのです。それはまるで地獄のような様でした。真夏のことですから、亡くなるとすぐに腐敗が始まります。校庭に穴を掘って荼毘に付すことになりました。

翌7日からは死体を焼く作業が始まりました。一人亡くなるごとに校庭に穴を掘り、校舎のガレキから板や柱を集めてきて底に敷き、その上に遺体を載せて火をつけました。最初はプシュ、プシュとウジ虫がはじける音がします。次はパン、パンと内臓が破裂する音がするのです。そして手足がピンと立ちます。私は驚いて「まだ生きてる!」と先生に言ったところ、先生は「生きているんじゃない。見るな!」と言われましたが、体が金縛りにあったように動かず、結局ガタガタ震えながらもずっと傍にいました。ほんとうにむごいことでした。

校庭で友達を焼いた日

死体を焼くのにガレキの廃材だけではすいぶん長い時間がかかりました。途中から陸軍船舶部隊に動員されていた3年生の子が一斗缶で油を持って来てくれ、死体に油をかけてから焼くようになりました。焼き上がった遺骨はきれいな桜色でした。私達は先生に喉仏と小指の骨を拾うように言われました。その時になって初めて金縛りが溶け、涙がポロポロこぼれました。私達はその骨をわら半紙に包み、名前を書いて、校長室の応接机の上に並べていきました。子供を探しに来た親ごさんが、我が子のお骨を引き取って帰られましたが、終戦になっても誰も引き取り手のいないお骨もありました。おそらく家族全員がお亡くなりになったのでしょう。

校長室の応接間

東練兵場に動員されていた1年生全員と2年生東組の子達は、現地解散になったものの、市内が猛火で戻ることができず、二葉山に避難した子、遠回りをして学校に戻ってきた子、家に帰った子とまちまちでした。全員大火傷を負っていましたが、亡くなった子はいませんでした。3年生は動員先が金輪島で、被爆後次々と被災者が送り込まれ、その看護のために島に残されました。煙草工場に動員されていた4年生も現地解散になり、学校に戻ったり家に帰ったりしました。

雑魚場町に動員されていた2年生西組の生徒は39人でした。学校までたどり着けた人、動員先の雑魚場町で亡くなった人、学校へ帰る途中に力尽きて亡くなった人、救援のトラックに乗せられて似島に送られた人、何とか自宅に辿り着いた人もいました。しかし結局、坂本節子さん一人を除いて全員が8月末までに亡くなりました。坂本さんは、何とか自力で比治山を超え、山の反対側の段原にある自宅まで辿り着いたそうです。坂本さんはその後短大を卒業し、中学校の先生をされていましたが、37歳で癌で亡くなられました。

広島県立第二女学校の原爆犠牲者は、先生3名、2年生西組39名、3年生2名、4年生1名、で、1年生全員と2年生東組は無事でした。

同じキャンパスにあった女子専門学校では、その日3年生が金輪島にある陸軍船舶部隊に動員されていて無事、2年生は岡山県の水島に動員され寄宿舎に入っていて無事でした。1年生は翌日からの動員の前の壮行会が学校で催されていて校舎にいました。その1年生の学生達が、私達のように学校に戻ってきて比較的元気だった県女の学生と一緒に、2年西組の学生達や次々に避難してくる負傷者の世話をしました。たった1年しか違わないのに、彼女達のてきぱきとした動きに感心しました。

8月15日に玉音放送があり、学校で、みんなでラジオの前に集まって聞きました。「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び…」の部分だけが聞き取れた私は、今後も耐え忍んで戦争をやりとげようと言われているのかと思いました。しかし先生から日本が負けたと聞き、腹が立ちました。どうしてあと10日早く戦争を止めてくれなかったのか!下級生たちは死の間際にも、「お国のために死ぬんだから泣かないで!」と全身火傷で苦しみながらも健気に言って亡くなっていったのです。10日早く終戦になっていたら、あの子たちは死なずにすんだのです。

玉音放送があったためか、以前から決まっていたことなのか分かりませんが、8月15日にそれまで女専に寝かせていた負傷者を女専から1.4km離れた大河小学校(現・南区旭町)の講堂に移すことになりました。私達動ける者は、負傷者を担架に載せ、何度も大河小学校まで往復して運びました。講堂ではダンボールや体育で使うマットがずらっと敷かれ、運ばれてくる人達を寝かせました。女専から運んで来た人達だけでなく、周辺の臨時救護所になっていたところからも運ばれてきていました。そして女専の臨時救護所は閉鎖になり役目を終えました。大河小学校の救護所では、暁部隊の衛生兵がてきぱきと指示をしていました。ここも10月3日には閉鎖されました。

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