切明 千枝子 Chieko Kiriake
平和はじっと待っていても来てはくれません
6. 家族の被爆とその後
私は家が気になって、6日に一度家に帰ったのですが、母が「照子がまだ帰ってない。学校に戻るかも分からんから、学校にいてくれ。」と言ったので、すぐに学校に戻りました。家は倒壊して住める状態ではありませんでした。私達の学校県女は倒壊していましたが、同じ敷地にある女専は倒壊を免れていましたので、その校舎で寝泊まりしながら9月半ばまでは元気に下級生や負傷者の世話をしたり、校舎の後片付けをしていました。ところが9月末か10月初めごろから、髪の毛が抜け、歯茎から出血し始めました。
そのころ周りでケガも何もしていないのに、髪が抜け、歯茎から出血し、紫斑が出て亡くなっていく人達が何人もいました。だから私もこのまま死んでいくんだろうなと思いました。死ぬことを怖いとは思いませんでした。それまで亡くなった級友の遺族からの射るような眼差しがとても辛く、生き残ったことに罪悪感すら覚えていたので、ようやくその眼差しから解放されると思うと、かえって安堵しました。それまで遺族と会う度に、「うちの子は亡くなったのに、なんであんたは生きてるの?」と言わんばかりの鋭い目線を感じていました。もちろん実際に口に出して言われたわけではありません。
そのころはまだ、このような症状が放射能障害であるということを誰も知らず、どこの病院に行っても治療法がありませんでした。ただ「栄養のあるものを食べなさい。」と言われるだけでした。母は、「絶対に死んだらだめだよ。」と言って、ドクダミを煎じて飲ませてくれたり、遠くの農家に自分の着物を持って行って、米や野菜に交換してもらったりと、懸命に看病してくれました。結局年末まで原爆ブラブラ病と言われるような強い倦怠感で寝たり起きたりの生活をしていました。
同じ学校の2年生だった妹照子は、東組だったために東練兵場に動員され被爆しました。ほとんどの学生がひどい火傷を負いましたが、亡くなった学生はいませんでした。照子は家に帰ろうとしたそうですが、市内は火の海で二葉山に逃げたそうです。そこで1年生の子が、自分の家は山の反対側だから、一緒に来ませんかと声をかけてくれました。その子の両親は、照子が負傷した我が子を連れて帰ってくれたと勘違いされ、「市内の火が収まり帰宅できるまでここにいなさい。」と数日間滞在させてくださったそうです。照子はその子のお父さんに連れられて数日後皆実町の自宅まで戻って来ました。
父は元宇品にある造船所で勤めていたので、ケガや火傷をすることはありませんでしたが、照子が帰って来ないので、6日から毎日、動員されたと聞いた雑魚場町と東練兵場を探しまわりました。そのために大量の残留放射能を浴びたのでしょう。9月に入ると高熱が出て、私と同じような強い倦怠感で寝込むようになりました。家では父と照子と私の3人が枕を並べて寝込むという状態でした。父は41歳の時に被爆し、51歳の時に白血球減少症という原爆後遺症を発症しました。輸血すると少し元気になり仕事に出かけますが、体調が悪くなると日赤病院に入院して輸血を受けるということを長く繰り返していました。
祖母は原爆投下時自宅にいて、何が落ちてきて当たったのか分かりませんが、額がぱっくりと割れ、血まみれになっていました。母が被服支廠の軍医さんに見せ、傷を縫っていただき、被服支廠の倉庫に寝かせました。そこに入ったのは祖母が最初だったのですが、その後次々と運び込まれる負傷者を寝かせる臨時の救護所になりました。祖母は、死臭や糞尿臭、血の臭い、膿の臭いが充満する倉庫に我慢できず「出してください。」「死んでもいいので出してください。」と母に頼みました。母は倉庫の外に引きずり出して軍隊用のゴワゴワした毛布の上に寝かせ看病をしました。2,3日後には父が建てた掘っ立て小屋に連れて帰りました。私も忙しい母に変わって看病を手伝いましたが、当時は赤チンやオキシフルといった薬剤しかありませんでした。傷が治った後も、ケロイドが残っていました。そして看護もむなしく翌年の春先に亡くなりました。
家は、火災は免れたものの人が住めるような状態ではなかったので、父が近くの畑に4本の杭を立て、家からガラス片が刺さった畳を何枚か引っ張りだしてきて、裏返して敷き、屋根には焼けたトタン板を載せ、蚊帳を吊って、何とか家族が寝られるようにしてくれました。火災を免れたことで畳や家財を使うことができたことは幸いでした。8月いっぱいはそこで野宿をしました。その後、父は骨組みだけは残っていた家をなんとか建て直し、焼け跡から拾ってきた瓦を使って屋根も葺いてくれました。しかし高熱で焼けた瓦は、上薬がなくなり雨漏りがしました。
戦争が終わってすぐ、4月から学童疎開で沼田(現・安佐南区)にいた双子の妹、詢子と陽子がトラックの荷台に載せられ帰ってきました。同じように帰って来た子供達の中には、家族全員が原爆で亡くなり、孤児になった子もいました。原爆孤児の実数は全く分かりませんが、広島平和記念資料館の企画展では2000人~6500人と展示されています。