切明 千枝子 Chieko Kiriake

平和はじっと待っていても来てはくれません

7. 新たな出発

大河小学校には、家族が全員亡くなって迎えに来てもらえなかったり、家が焼けてしまって連れて帰ってもらえない2年生西組の子達が残っていました。私達はその子達に3食食べさせてあげたり、傷の手当てをしたりしていました。食事はほぼ毎食雑炊でした。それも焼けていなかった学校周辺で採ってきた草と麦や芋などを炊いたものでした。1人の先生が「菜」とつく草は食べられると言われたので、ナズナやヨメナなどを探しました。「菜」はついていませんでしたが、鉄道草も食べました。

ただでさえ壊れていた県女の校舎は、9月17日の枕崎台風で完全に崩壊してしまいました。私達は轟音を立てて崩れていく校舎を、仮校舎として使っていた女専の教室から見ていました。「広島には75年草木も生えない」と言われたものですが、市内の焼け野原にも翌年の春には草が生えてきました。

1945年12月 16歳

私は9月末から年末くらいまで体調が悪く寝たり起きたりの生活をしていましたが、年が明けた頃からは学校に戻れるようになりました。3月には上の学校へ行くための入試がありました。私は2年生西組の子達が、懸命に看護をしても次々に亡くなっていくのを見て、何をしてあげればいいのか分からないことにふがいなさを感じていました。将来は医者になって解明したいと思ったのです。調べてみると女性が医者になるための学校は全国に2校しかありませんでした。その一つが大阪女子高等医学専門学校(現・関西医科大学)でした。父も学費は何とか工面するから行って来いと背中を押してくれました。受験したところ合格したのです。同じ時に女専も受け合格しました。

卒業記念遠足 宮島

3月に大阪に出て間借りさせてくれる家を探し、4月から学校が始まりました。ところが大阪では食べる物が何も手に入らないのです。毎日夏みかんばかり食べていました。体は痩せ細りとうとう結核の初期症状である肺尖カタルになってしまいました。大家さんが心配して、両親に連絡してくださいました。驚いた母はすぐに迎えに来てくれました。入学から2ヶ月しか経っていませんでしたが、結局退学して広島へ帰りました。

広島に戻り、県女と女専の校長を兼務されていた津山先生に相談したところ、「女専に戻ってこい。」とおっしゃいました。女専の入試も合格していましたので、6月半ばから女専の生活科学科に編入しました。

教育内容は180度変わってしまいました。小学校の教科書は、軍国主義的な箇所を黒塗りしてそのまま使っていました。私達の学校では先生が手作りされていました。1人の先生は、これまで神話にすぎない事柄を歴史として教えていたことを学生に謝罪されました。他の先生達は、何もおっしゃることもなく、新しく入って来た民主主義教育の方針に則って授業をされていました。

女専に入ってから社会科学研究会に入りました。この会には、大学や専門学校、女子専門学校といった広島にある様々な高等教育機関の学生が参加していました。それまで男女が交流することなど考えられなかったのに、この会では男女が様々な社会問題に関して対等に意見を戦わせていました。また進歩的な知識人を講師として招き勉強会も開いていました。そしてこの会で、後に夫となる切明悟と出会いました。彼は広島高等師範学校(現・広島大学教育学部)の学生でした。

Share