切明 千枝子 Chieko Kiriake

平和はじっと待っていても来てはくれません

8. 就職と結婚

1949年、私は広島女子専門学校を卒業し、広島県教育委員会に就職しました。また卒業とほぼ同時に交際していた2歳年上の切明悟と結婚しました。夫は師範学校を卒業し、中国建設局に就職して、中国研究所というところで、中国地方の農作物の調査や人口動勢の調査などをしていました。そのため中国地方各地をまわっていました。夫はその後、大手出版社に転職しましたが、次第に売れる本しか出版しなくなり、1961年に独立し、教育に特化した出版社、東方出版を立ち上げました。

私は県の教育委員会に就職後、社会教育課というところに配属されました。社会教育課の目的は、軍国主義や封建主義の払拭と民主主義の普及でした。就職してまもなく呉にあったGHQ中国地方軍政部の民間情報教育局(CIE)に派遣され、アメリカが日本に普及させようとしていた民主主義や男女同権、子供の権利などを啓蒙する活動について講習を受けました。その後、広島県内各地の団体やお寺などを訪ね、女性や子供の権利を啓蒙してまわりました。例えば地域の青年団や婦人会などは、地元の有力者がトップになっていましたが、選挙で選ばれるべきだという講習会を開くのです。またそれまでの日本では、男性中心の男尊女卑の社会で女性や子供は男性より下の存在でした。男女が加入している団体では、必ずトップは男性でした。それも間違っていると説いてまわるのです。

広島の県内の町や村を啓蒙活動のためにまわっている時、偶然、「荷車の歌」などの小説を書いていた山代巴さんと出会いました。女専の時に社会科学研究会で、彼女が講師として来てくださり、お会いしたことがありました。彼女も農村の女性達の意識改革のために村々をまわっておられました。彼女に、「官費を使って上からおろすのは、民主主義じゃない。」と厳しく非難され、「どうすればいいですか?」と尋ねると、「何もしないより、やる方がいいが、やり方が間違っていることを忘れてはいけないよ。」と言われました。そして県北の小学校の先生の就職口を紹介されましたが、あまりに遠いのでお断りしました。結局、私はこの仕事を1956年に長女が生まれるまで続けました。

私達は、結婚するときに子供は絶対作らないと約束をしていました。それは二人共が被爆者で、私達の周りの被爆者達から生まれる子供に障害を持った子供が大勢いたからでした。ところが、結婚して7年目に、通っていたお医者さんが、「子供は意識的に作らないの?それともできないの?」と聞いてこられ、私は正直に夫との約束のことを話しました。するとその医者は「人間の命に上下はない!障害を持って生まれたならなおさらいとおしんで育てなければいけない。ご主人は人権関係の本を出版されているのに、自分たちは障害者を差別するのか!」と厳しい口調で怒られたのです。そして1956年長女が、1962年には長男が誕生しました。

家族でお花見

Share