切明 千枝子 Chieko Kiriake

平和はじっと待っていても来てはくれません

9.証言を始めるきっかけ

1975年に山陽新幹線が全線開通すると、東京からの公立学校の修学旅行は72時間以内というルールの範囲で行ける地域が格段に広がりました。東京都葛飾区の上平井中学校教諭江口保先生は、72時間以内に広島ならば往復できると気づかれ、広島への修学旅行を思い立たれました。江口先生自身は長崎での被爆者でしたが、長崎は新幹線を持ってしても72時間では行けませんでした。

江口先生は事前に広島にある慰霊碑をあちこちまわられ、それぞれの碑の前で被爆者が少人数のグループの学生たちに体験を語るという形式を思いつかれました。今では修学旅行の平和学習と言えば当たり前のように行われているこのスタイルは、この時江口先生が確立されたのです。

しかし当時は被爆という辛い体験を話したがらない被爆者がほとんどで、学生に語ってくれる被爆者を探すのにたいへん苦労されたと聞きました。また父兄の中には、むごい話を子供達に聞かせたくないと考える人もいて、教員室では激しい議論がなされ、実現は困難を極めたそうです。

私はそのころ県立第二高等女学校殉国学徒の碑(現・中区国泰寺町)の世話係をしておりましたので、江口先生から連絡をいただき、証言をしてくれるように頼まれました。しかし、私は、あのような辛い体験をできるだけ思い出さないように、できるだけ忘れようと生きてきましたので、証言はできませんとお断りしました。そして女学校の時の数学科の有田先生に証言をしてくださるようにお願いしました。先生は快く引き受けてくださいました。この時のような、学生が直接被爆者の話を聞くという上平井方式と呼ばれる平和学習のあり方は、葛飾区の別の学校に広がり、その後、関東圏や関西圏の学校へと広がっていったのです。

殉国学徒の碑の前で証言を始められてから何度目かで有田先生が病に倒れられ、証言を続けられなくなりました。先生は証言をカセットテープに録音し、今後はこれを使ってくださいと私に託されました。しかし実際に使ってみると、碑が交通量の多い国道の傍にあったために、騒音で声が聞こえにくく使用を断念せざるをえませんでした。江口先生から、私に証言をしてくれるように強く懇願され、私はクラスメートと3人でチームを作り証言をすることになりました。その後2~3年は3人で証言していましたが、そのうち1人が亡くなり、1人が病気になりと、今では私一人だけになってしまいました。

学生の中には、私が話し初めてもそっぽを向いたり、どこかに歩いて行こうとする子もいました。ところが話が進んで行くにつれて、最初は横を向いていた子が、目にいっぱい涙をためているのです。感想文には「ありがとうございました。」とか「平和のために頑張ります。」と書いてくれる子も大勢いました。先生達からは、「広島に行くと子供が変わる。」と言っていただけるようになりました。

被爆の翌年に建てられた慰霊のための木柱 娘を失った親たちからの非難するような眼差しを受ける

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