2009年09月11日

11 イギリス編

イギリスを訪ねて

 1999年年賀状を兼ねて、原爆慰霊碑の前で撮った写真をケイコ・ホームズさんに送った。数日後、彼女からファックスが入った。5月に日英草の根交流団が来英して元イギリス兵捕虜関係の人たちと交流するから、貴方も一緒に来て被爆体験を話してくださいと書いてあった。はたと迷ったが、原爆慰霊碑の周辺を「静かに、静かに」と、つぶやいて歩いた人たちを思い出すと、再会したくなった。

 6月29日成田空港。初対面の宮川晃史団長は、訪英団のメンバーが元イギリス兵捕虜と交流を重ねてこられた経過を丁寧に説明して下さった。実績がないのは私だけだった。不安がつのるが乗りかかった舟じゃなくて飛行機だもの、ヒロシマを伝えるのだと意を決して搭乗した。機内では、ひたすら千代紙で折鶴を折った。

 7月1日の夕刻、ウオータールー駅に着いた時、高層ビルにユニオンジャックがはためいているのが見えた。1943年、私が国民学校に就学したての頃、鬼畜米英と教えこまれた旗の図柄はこれだった。全身が硬直したようになった。そして、アジアの国々が日章旗を憎む気持が痛いほど理解できた。

 ユニオンジャッククラブの重厚な扉を押し開けたとたん、草の根のメンバーは旧知の人たちを見つけてハグしたり談笑しはじめた。私は孤独だった。「あら、あなた、ヒロシマで詩を読んでくださった方ね」と、近寄ってきたのは穏やかな面持ちの老女だった。「私の父は日本軍の捕虜でした。でも、私はヒロシマに行って変わりました。日本を憎むのは止めました」と、私の手をとって言われた。

 プラン通りにプログラムは進まないもので、私がヒロシマを語る機会は、なかなか訪れなかった。ケイコさんが、そのチャンスを作ろうと懸命になっているのだけは、私にビンビン響いていた。

 和解礼拝の最中、「啓子さん、私たちは連合軍の一員として原爆投下の責任を感じます。許してください」と、退役軍人が述べられた。

 会堂の丸天井にアメージンググレースが交錯するようにこだました。会衆が手を取り合って歌い始めた。

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(アガぺ, ウオーターローでの交流)

12 イギリス編

一人一人に語る

 草の根訪英団の目的は「相互理解と交流」だから、反戦・核廃絶などを主張するのは表向きには遠慮すべきなのだろう。だが、ケイコ・ホームズさんは、イギリスの人たちが旧日本軍から虐待を受けたという被害者意識を赦しへと変化させて、世界平和への道をお互いに探る方向に持っていくことに心を砕いて居られた。

大勢のメンバーの中で、特別に私だけがケイコさんと話をすることも容易ではなかった。私はヒロシマを伝えに来たのにと、焦っていた。 

 真意を伝えるチャンスは意外なところから訪れた。在英日本大使館でパーティーがある日、ケイコさんから着物の着付けをして欲しいと声をかけられた。急ぎ、彼女の部屋に行った。

私は、ヒロシマを伝える機会がないなら、来た甲斐がないとまで言った。でも、英訳した私の被爆体験記をプリントして持って来ているから、せめて、イギリス人に配りたいとも言った。

 ケイコさんが私以上に焦って居られたのを、その時に知った。

 私の名がケイコ・ホームズさんと同じなので、イギリスの人たちは私の名をすぐに覚えて「アナダー・ケイコ」と、呼んでくださった。さらに、私が被爆者ということが次第に知れ渡った。

 日ごとに「アナダー・ケイコ」と呼びかけられて「ヒロシマで原爆に遇ったそうね、もし、よろしかったら、お話を聞かせてください」と言ってくれる人が増えていった。大勢の前で被爆体験を語ることを予期していたのは妄想で、一人一人に語ることも重要なことと考えを変えると、被爆体験紀のプリントを常時持ち歩くことにした。

 食事の後で、ティータイムで、バス旅行の車中で、公園の散歩中でも話すチャンスが何度もあった。

 帰国後、「貴方の被爆体験記を読みました。イギリスは原爆を投下した連合軍の一員だった。戦争をした者は罪人です」とか、「広島や長崎の人たちの苦しみは、捕虜の受けた苦しみより悲惨だったことを知りました。和解したうえで、残る人生を平安に過ごしたい」と、何通もの手紙を受けとった。

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(ケイコさんとイギリス大使館へ)


13 イギリス編

「元・日本軍捕虜」からの便り

 訪英から戻って1ヶ月くらい経ったころ、イギリスから手紙が来た。そこには「私は、日本軍の捕虜となってタイで過酷な労働をさせられました。戦争の末期には福岡の捕虜収容所にいました。広島が爆撃された直後、焼け跡の片付けのために広島で働きました。見渡すかぎりガレキで、人々は傷ついていました。言葉にならないほどひどいものでした。数日後に日本が戦争に負けたので、私たちは、過酷な労働から解放されました。しかし、アメリカ軍の指令で強制的に沖縄に行かされて、レントゲン検査、血液検査、便と尿の検査を受けました。精密な検査でしたが、広島に投下されたのが原子爆弾とは知らせてくれませんでした。1年後、イギリスに帰還して、原爆のことを知りましたが、身体に異常がなかったので、いつの間にか忘れていました。あなたの被爆体験記を読みました。私も、被爆者なのですね。これから何年生きているか神様だけがご存知ですが、平和に平凡に生きていたいです」と書いてあった。

 イギリスでは大勢の人に出会ったので、その人が、どんな人だったか、私は知るよしもなかった。

 ケイコ・ホームズさんに問い合わせると「私が初めて会った頃、彼は、堅い殻に閉じこもっていたけれど、このごろは、冗談が言えるようになったのよ、ほら、日本語で号令をかけていた人よ」と言われた。
 そう言えば「私は日本語が話せます。聞いてください」と言ったとたん、両手をしっかり脇腹に付けて「キオツケェー…バンゴウ、イチ、ニッ、サン、シッ、ゴ…イソゲ、ハヤク、ダメダメ…」と言いながら、目から涙が溢れるのに耐えていた人を思い出した。

 「加害者は鈍感。被害者は敏感」という言葉が脳裏をかすめる。
 あれ以来、旧日本軍の捕虜だった元イギリス兵や家族や遺族の方々がヒロシマ訪問をされる度に、広島の若い世代の人たちに引き合わせるようにしている。彼らはブラスバンドやハンドベルでイギリスの民謡を演奏して訪日団を迎えることもある。このごろは、日本の若い世代も歴史を直視する気運が湧いてきたようだ。

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(バッキンガム宮殿広場)

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(元イギリス兵捕虜の体験を聞く 広島女学院)


2009年09月12日

14 イギリス編

日・英・兵士たちの戦後

 シベリアに抑留された1人の元日本兵に思いを馳せるときがある。彼が広島に帰還したとき、弟はすでに被爆死、焦土となった町で彼は、熱傷や放射能後遺症で苦しんでいる人たちに出会った。目をそむけることも、凝視することも出来なかった。やがて、ヒロシマから核廃絶と反戦を訴えるしかないと決意された。世に子のない人はいるが、母のない人はいない。画家の彼は母と子の像をひたすら描かれた。優しさいっぱいの画面に核兵器廃絶の訴えが滲んでいる。彼がシベリアから秘かに持ち帰ったスケッチは、敗戦から50数年も経って出版された画集に収まっている。

 さて、元イギリス兵捕虜の癒しに奔走されているケイコ・ホームズさんが、我が家に滞在されることになった。

 私は隣近所の面々に集ってもらった。「エリザベスⅡ世女王から勲章を貰った人が、来られるんだって」と、物珍しそうな面持ちで集ってきた人たちへ、ケイコさんは「私はお金持ちでもないし、平凡な一市民です。特別視しないでください。互いに理解し、和解することでこそ平和が実現すると思いますから、運動をしているだけです」と語られた。

 その夜、私はケイコさん一人のために被爆体験を語った。以来、どちらが言い出すともなく、彼女の広島での平和活動は、私の仲間たちで支えるようになった。

 あれ以来、秋になると元イギリス兵捕虜たちがヒロシマを来訪される。原爆慰霊碑参拝後、まず、高校や市民集会で彼らの体験を聞く機会を持つようにした。その後に、資料館見学、碑めぐりをしてヒロシマを伝えることにした。その順序でプログラムを展開すると、彼らが癒されていく過程が見えてくるようになった。

 3年前、私は牛久市に移転したので、あの画家とはごぶさた続きだが大きな催しがある時は、広島YWCAが所有している彼の絵を借りて、それを眺めながら被爆証言をすることにしている。それは、私が彼へ捧げるささやかな癒しでもある。

 最近、彼が病床にあるとの噂が届いた。たしか80余歳になられた筈である。彼は癒しを得ることができたのだろうか。私は、シベリアで捕虜生活をした彼へ、癒しの言葉を捧げたいと、このごろ、しきりに思っている。

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(ケイコさんと八木の仲間)

15 インド・パキスタン編

ブッダの嘆き

1998年5月、インドとパキスタンが核実験を成功させた。

 翌年春、現地を訪問した人達の報告会に参加した。その席上、両国の青少年を広島に招いて核被害の実相を学習させようと決まった。折しも、地球環境映画祭で受賞したドキュメント映画「ブッダの嘆き」のビデオテープを入手した。ブッダの生誕地の近く、ジャドゴダのウラン鉱で働いている人たちの被曝を実録したものである。

 核実験が成功したとき、体制側が「ブッダがほほえんだ」と喜んだそうだが、映画製作者シュリプラカッシュ氏は「核に手を染めたことによってブッダが嘆いている」として、その題名を付けたという。

 01年5月、実行委員に名乗りをあげたメンバー50余名は、各地で上映会を開いた。募金活動も始めた。インドとパキスタンの教育機関、報道機関にヒロシマ学習に派遣してもらう10名の選考を依頼したし、彼らが来広した際のステイ先を探した。何もかも手さぐりだったが、核兵器廃絶に向かって前進しているという連帯意識が知恵を引き出した。

 報道関係の理解と協力も相当なものだったので市民の反応もよく、募金もかなりの額が集った。だが、多額の経費を要するので、片時も予断は許されなかった。

 8月3日から始まった広島学習は、平和記念資料館、原爆慰霊碑、原爆供養塔、碑めぐり、放射能影響研究所の医師による講義、原爆病院へのお見舞い、原爆養護ホーム訪問、被爆者の証言を聞くなどと、盛りだくさんのプログラムが組まれていた。それらは核抑止の神話に囚われている彼らにとって、厳しいものだった。加えて、広島の蒸し暑さには悲鳴の連続のようだった。私たちもベジタリアンやイスラム教徒の人たちへの食事に腐心した。

 8月6日、私は平和祈念式典に参列する彼らの引率をした。原爆投下の8時15分、平和の鐘を合図に黙祷。式典の後、報道陣のインタヴューに応える彼らは「核兵器は人類には不必要です」と異口同音に述べた。その言葉は、私たちの運動に大きな成果が出ていると感じた瞬間だった。

 帰国後の彼らは、核有用論を是とする国情にあって、広島を伝えようとして動きだしたと、聞こえてきた。かなり苦労している様子も伝わってくる。

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(インド・パキスタン、そして日本の青年たち)

16 インド・パキスタン編

敵対から友情へ

 核装備をしているインドとパキスタンの青少年にヒロシマ学習をしてもらおうとして始まった運動は、翌02年も行った。03年には、アメリカの青少年にも参加要請した。核保有のおごりに酔っているアメリカの人たちこそ学習するべきとの意見が出たからであった。

 何事も初回は世間の関心も集中しやすく、資金の調達も容易に進むものだが、3度目ともなると運動は社会に認知されていたものの、集金力が弱くなってきた。実行委員を辞めた人もあって、問題を抱えながらのゴーサインだった。

 私は歓送迎会と会期中の食事を担当することになった。経費節減のためにも手料理をすることが必要だった。彼らの中にはベジタリアンやイスラム教徒がいるのは分かりきっていたから、2つの大鍋に肉入りカレーと野菜カレーを作った。余るほど大量のカレーを作ったのに残らなかったのは、報道陣も味見をしたからと後で知った。

 8月1日午後5時、会場のアステールプラに各国の青少年たちが次々に現れた。日本の青年たちが握手を求めて進み寄った。報道陣のフラッシュが集中した。

 翌日から、盛りだくさんのヒロシマ学習が彼らを待ち受けていた。平和記念資料館(原爆資料館)では、彼らの想像を遥かに越えた被害の実相に触れた。学習の集大成として、彼らは広島市民の前で吉永小百合さんと原爆詩の朗読をした。壇上の彼らの中には、感極まって声が出せない者もいた。

 インドとパキスタンは敵対国。アメリカもアフガン攻撃をしているから、彼らすべてが戦時下にあるのをまざまざと見せつけられた日々だった。その中にあって、日本の青少年たちが彼らを交流させようと苦慮している姿が痛々しかった。

 インド・ジャドゴダのウラン鉱のドキュメント映画「ブッダの嘆き」の製作者シュリプラカッシュ氏、パキスタンの反核活動家サラマット女史も参加されたことは、主催者にとって大きな喜びだった。お二人の国境を越えた良識が青少年たちに伝わったようで、8月6日の平和祈念式典では、肩を並べて参列するほどになっていた。

 別れに際して、彼らは「核廃絶に努力しよう、民間レベルでも友好国になろう」と誓い合ったと言う。そして、メールアドレスを伝えあったそうである。

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(8月6日 インド・パキスタンの青年たち 原爆慰霊碑に献花)

17  ドイツ編

「原発をなぜ止めないの?」

 乗り継ぎのミラノ空港のアクセスが順調にいかず、デュッセルドルフ空港に着いたのは深夜2時過ぎだった。遅いからと簡単な挨拶だけにして、オペラ歌手・渡辺朝香さんと私はホステスのハネロー・ディックマンさんの車でアウトバーンを小1時間も駆ってエッセンへと向かった。

 2001年4月23日の朝。早々に、私たち4人は市長表敬へと向かった。市庁舎の窓から負の歴史を背負ったシナゴーグが青銅のドームを頂いて建っているのが見えた。「あの中でユダヤ人が5万人くらい亡くなった。今はユダヤ人博物館になっている」そうだ。

 大道芸人たちのピアノ演奏やダンスを見物して楽しんだが、午後からは多彩なプログラムが用意されていた。

 その後の8日間、私たちが訪問した学校・集会・教会では「原爆投下したアメリカが憎いか」と決まったように質問が出た。私はその都度「ヒロシマは憎しみより平和を選び取りました。核兵器は未来を否定する悪魔です。核廃絶しか選択肢はないのです」と答えた。

 夜の集会も毎夜のように開かれた。いつもは言葉の壁で苦労するのだが、現地在住の日本人音楽家の方々がボランティアで通訳をして下さったので、日本語でヒロシマを語ることが出来たし、参加者の方々とも活発な交流が出来たのはお互いのために幸運だった。

 会場から「広島・長崎が原爆投下され、つい最近では東海村の事故で死者が出た。なぜ、日本は過去から学んで原発を止めないのか」と発言があった。私たちのメンバーの男性が「でも、広島には原発はないです」と間抜けな返答をしたので、私は背後から水を浴びせられたようにびくっとした。

 間髪を入れず、つと立ち上がった背丈が2メートルもあろうかと思われる男性が「チュウゴクデンリョク」と大声で怒鳴った。一瞬、不穏な空気が漂った。しばらく間を置いた私は「市民サイドでは原発反対運動をしていますが、政界・財界の事情があるので原発廃止の道は遠いです」と返答するしかなかった。

 立ったまま聞いていたその男性は「市民の生活を守るのは市民自身です。チェルノブイリ事故の後、北欧一帯に死の灰が降りました。当時は切実な問題だったのに、我々市民の中には忘れようとしている人もいます。ヒロシマ・ナガサキが世界のリーダーになってくれないと、我々の核廃絶運動も弱体化してしまうのです。お願いしますよ」と、最後は哀願の口調で哀願された。 

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(エッセンの対話集会)

18  ドイツ編

ハネローさん

 広島に本拠を持つワールドフレンドシップセンターの平和行脚は2001年4月23日から始まった。そのプログラムはハネロー・デイクマンさんによって周到な準備がされた。

 00年、彼女は高校の美術教師を定年退職されたた。その8月6日、長年の念願だった広島平和祈念式典に参列し、ヒロシマの伝道師になると決心したというだけあって熱気は尋常ではなかった。

 私たちの一行は男女各2人で、女性の渡辺朝香さんと私はハネローさんの家に滞在した。学校・教会・市民集会・そして交流会と多忙を極めるスケジュールなのに、彼女の多彩な手料理が毎回のように食卓にのぼった。

 毎夜、彼女は自身の戦争体験を話された。「4歳のころ、ミュンヘンに住んでいたのよ。鼻の手術を受けている最中に爆撃にあったの。医師も看護師もメスを握ったまま逃げたわ。手術台の側で見守ってくれていた母が私を抱いて地下室に避難させてくれたの。ほら、鼻の真ん中に傷跡があるでしょ。結局、手術しないままだったの。オペラ座のデザイナーだった父は戦場で死んだわ。親戚の男性たちも戦場に行って、帰還したのは1人だけだった。戦後は女性だけで生きぬいたのよ。父は私に美術の才能を残してくれた。だから、上級学校には行けなかったけれど、マイスターとして美術の教師になれたの」と涙された。

 すでに私の被爆体験記を読んでいた彼女は「被爆者は私より辛い体験をしたのね。核兵器使用は現在も未来も消してしまう。私が被爆者の味方になる理由が分かって貰えたでしょう?」と、さらに言葉を続けられた。

 毎朝、広い芝生のある庭に鳥たちがやってくる。彼女はかごに盛ったパンくずやリンゴやオレンジを庭にまく。そして自作の歌を歌う「私はアローン(一人)。不思議なことに庭に来る鳥もアローン。私のことを知っているのかしら」と。

 4月30日、別れの朝が来た。彼女は「私たちの出会いの記念にコロン(Köln)をプレゼントするわ。受取ってね」と言われた。

 しかし、迎えの車に乗り込んでも、約束のオー・デ・コロンを下さらなかった。催促するのも悪いと思ったから走り出した車窓から「ダンケ(有り難う)、アウフビーダゼン(さようなら)」と言いつつ手を振った。

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(ハネローさん)
 

19  ドイツ編

ミッションの目的は

 エッセン(Essen)から車でニュルンベルグへ移動したのは2001年4月30日。

 森と森の間に小さな集落が見え隠れする単調な景色なので、運転手が眠気を催さないようにと、オペラ歌手・渡辺朝香さんのリードでシューベルトやモーツアルトの歌曲を歌った。途中、ケルン大聖堂を見物。広場で一休みしていると、日独交換留学生のアキさんが現れた。これから私たちに同行して通訳をして下さるそうだ。

 発車オーライ。私たちは再び歌い始めた。「赤とんぼ」も「平城山」も「この道」も「カラタチの花」も歌った。

 夕刻、ニュルンベルグの近郊・ノイエキルヘンに着いた。ステイ先は元修道院のドミトリー。ホステスのハネロー・マインシュミットさんの笑顔が私たちを待っていた。

 夕食後、翌日からのプログラムについて打ち合せになった。ハネローさんは、書道・茶道・生け花・日本の歌などと矢継ぎ早に注文をされたが、私にとってそれらは二の次だったから、我慢ならなくなった。通訳者のアキさんがいることも意を強くした。

「書道・茶道・生け花などを所望されるのは日本人として誇らしく思います。しかし、私は被爆者だから、ここに伺いました。ヒロシマを伝えることと核の諸問題について連帯を確認するのが、このミッションの目的です。大事なことから決めませんか」と一気に言った。

アキさんが必死に通訳しているのを聞きながら、私はハネローさんから目を放さなかった。ハネローさんも私の顔をきっと睨んだ。周囲の人たちが息をひそめて2人を交互に盗み見していた。しばらくして彼女は「そうね。本題に戻しましょう」と静かに言われた。

 ベッドルームに向かっている時、背後からハネローさんの声がした。振り向くと「ケイコ、私たち仲良しになれるね」と握手を求めて近寄って来られた。

 シャワーを使うとき、アキさんに「エッセンのハネローさんがコロンを上げると言われたけれどもらわなかった」と言ったら「プレゼントはケルン大聖堂の見物という意味なのよ。日本人はケルンと発音するけれど、ドイツではコロンと発音するのよ」と言われた。オーデコロンは、そもそもケルンからフランスに持ち帰った水で作ったのが由来だと、初めて知ったことだった。

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(マインシュミット夫妻)

20  ドイツ編

聖サルバド教会

 ニュルンベルグの聖サルバド教会で聖遺物を見ていると、「私は、ちょっと用事があります」と言い残して通訳の筑紫さんが事務所の方に小走りに去った。 それから数分後、「正午から戦死者への和解礼拝を始めます。本日は、広島から平和巡礼団をお迎えしています。そのメンバーであるオペラ歌手の渡辺朝香さんに『ヒロシマからのメッセージ』を歌って頂きます」と放送があった。あれっと思っている間に、会堂の椅子席が埋まり始めた。筑紫さんに耳打ちされた朝香さんが祭壇に進んだ。

 聖職者が「第二次世界大戦中、ドイツ軍はイギリスの都市コベントリーを壊滅させました。戦後、この教会はコベントリーの教会に謝罪を申し入れました。それぞれの教会は瓦礫の中から拾った釘で十字架を作り、和解の印にしました。攻撃したのが金曜日でした。以来、毎金曜日正午に戦死者に捧げる礼拝をしています」と言われた。

 やがて、朝香さんの歌うアカペラ「世界の命=広島の心」(原田東岷・詩、藤掛廣幸・曲)が会堂の丸天井に転がるように響き渡った。

 礼拝後、参列者が朝香さんと握手するために集ってきた。彼らは口々に「今の歌はヒロシマの讃美歌ですね」と賛辞を惜しまなかった。涙を流している人もあった。

 朝香さんはエッセンでもノイエキルヘンでも、ラジオ取材の際にも、これと同じ場面を経験していた。音楽家集団からも「8月6日、広島とドイツで、この曲を演奏しましょうよ」とも呼びかけられていた。

 私のように被爆体験を語ることも意味のある事だが、芸術が訴える力を確認した朝香さんと私は、帰りの飛行機の中で、これからの活動について語り合った。

 01年8月6日、「核兵器廃絶をめざすヒロシマの会(HANWA)」による「8・6ヒロシマ国際対話集会・反核の夕べ」のオープニングで、作曲者・藤掛廣幸氏の指揮の下、市民合唱団150名(4歳から88歳まで)が、「世界の命=広島の心」を歌った。

 翌年の8月6日は250余名の市民が、あの日と同じ晴れ渡った空の下で高らかに歌った。
若い世代のプログラム「平和へのアピール」も増え、年毎に参加者が増え続けている。

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(世界の命 広島の心 市民合唱団)

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(聖サルバド教会)