2011年10月07日

41 アメリカ編4-06

核保有を憂う人たち
 アメリカ内部にも核兵器廃絶、核の諸問題、軍縮や反戦運動に取り組んでいる人たちが大勢いる。 
彼らは核保有国に属しているから、私たちよりも心を痛めているのが共通していた。
 05年4月22日、カルフォルニアに本部を持つ「核時代平和財団」のオフィスにカーラ・オング女史を訪ねた。この財団は、ワシントンDCに活動拠点を移したばかりで、私たちが最初の訪問客だそうである。
 オング女史は「残念ながら、ブッシュ政権はNPT(核兵器不拡散条約)再検討会議には関心がないみたいです。外した核弾頭はテキサスに存在しています。アメリカの核予算は年間400億ドル(4兆2千億円)です。核兵器のリサーチのためとか、核弾頭のライフワークを長くするとか…要するに、新しい機能にするために遣われているのです。アメリカ市民を教育して、回り回って市民たちの生活が脅かされると自覚させ、これらの問題に目をむけさせなくては核軍縮は実現しないと思います。核を放棄すればアメリカが弱体化すると危惧する市民も多いので、私たちは、アメリカの軍は他国より強大だから充分に国防が成り立つと説得しています。不確認のテロリストに核で威嚇しても解決にはなりません」と、20代の若さからくる熱い語りだった。
 翌23日は、02年3月、アメリカ政府の機密文書「核態勢の見直し(NPR)」をホームページ上で公開したグローバル・セキュリティー代表のジョン・パイク氏のオフィスを訪ねた。NPRには、アメリカを危険視している相手に対して、アメリカが核兵器の使用を考えているという内容も含まれているそうである。中国新聞の岡田記者の「どんな経路で、機密文書を入手されましたか」との問いに、パイク氏は「FAXから出てきたのさ」と冗談のような口調で返答された。そして、言葉を継いで自身の見解を以下のように述べられた。
 62年10月、キューバのミサイル危機のとき、9歳の私はケンタッキーに住んでいました。そこで戦闘機が給油しているのを見て戦争を知りました。それを契機に原爆の効果について学習を始めたのです。
 戦争をしてきた長い歴史が新兵器を創り続けてきました。現時点のアメリカは核兵器をかなり削減していますが、どこに居るか分からないテロの消滅は不可能という事情もあります。
 日本は長い歴史のなかで多様な文化を培ってきたから、多くの国宝を持っていますが、アメリカは歴史が浅い。原爆製造には長い時間と経費をかけてきました。だから、アメリカにとっては国宝ですよと、乾燥した声で自嘲的に言われた。私は「歴史のある日本には多数の国宝がありますから、核兵器は不要です。アメリカも別のものを国宝になさればいいですね」と述べて、パイク氏のオフィスを辞した。帰途、タクシーの窓越しにアーリントン墓地、硫黄島占領記念碑を見た。冷たい雨が降りしきっていた。                         


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(カーラ・オング女史にヒロシマ資料を贈呈)

42 アメリカ編4-07

アメリカ的歴史認識

 ワシントンDC滞在中の05年4月23日夕刻、投宿しているホテルのレストランに原爆投下を正当とする歴史家サミエル・ウオーカー氏を迎えた。その2日前に氏を迎える予定だったのが意味不明で果たされなかったのも災いしてか、長身の彼が目の前に現れた瞬間から、私は尋常でない不快感に襲われた。
 席についた彼は、穏やかな口調で一言一句に念を押すように自身の歴史認識を話された。
「トルーマン大統領は、日本本土上陸をしないで戦争を早く確実にどう終結させるかを考えていた。原爆投下時、日本は降伏しようとしていなかったし、ソ連が侵攻していた。原爆投下をしなければ、もっと多くの死があっただろう。トルーマンは原爆投下について、悲惨なことを起こしたと驚いていた」
 中国新聞の岡田記者が「では、何故、長崎に」と、たたみかけるように訊ねた。
「原爆を2度と使うなとトルーマンが言ったのは長崎の後だった。彼は朝鮮戦争では使用しないようにと言った」と、平然として答え、さらに言葉を続けられた。
「日本が無条件降伏を決意するのには時間がかかり過ぎた。日本は武器を捨てるが天皇制を残すこと。戦犯を日本の裁判に任せろ。占領を短期間で終わらせろなどの条件を加えてきたのだ。結果は、天皇制を残すことだけになったけどね。天皇は広島に原爆投下されたことにより戦争終結を決意したと思うが、ソ連侵攻のあとだった。戦後50年経って、アメリカの各地で戦勝記念行事があったのさ。そのとき、『原爆投下が戦争終結を早め、双方の犠牲者を最低限におさめた』という認識がアメリカ市民の間に神話のように浸透していると、確認できたんだよ」
 岡田記者が「アメリカと日本との認識には深い溝を感じますが、それを埋めるには、どんな方法がありますか」と、訊ねると「方法は無いよ。溝を埋める必要もないね」と、軽くいなされた。
 彼の語る話は、今までに繰り返し聞かされたアメリカ側の論理であり、耳新しいことではない。だが、耳元で言われると特別な響きで迫ってくる。側で聞いていた私は血の気が引くような戦慄を覚えた。黙って引き下がりたくないので「貴方は、広島や長崎の被爆者に出会ったことがありますか。または、被爆に関する記述や写真に接したことがありますか」と訊ねた。
「知らないね。貴方が初めてだよ」と、あっさりと言い放った彼は、一緒に飲み物でもと誘う私たちを振り切るようにして去って行かれた。
 その時から私の胃はキリキリと痛み、水さえも咽喉を通らなくなってしまった。ミッションの仲間たちの心づくしで果物とホットドッグ、そして飲み物が部屋に届いた。だが、深夜になっても食欲は起こらなかった。

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連邦議会議事堂(ワシントンDC)

43 アメリカ編4-08

ノーベル平和賞の誇り

05年4月25日、ワシントンDCのIPPNW(核戦争防止国際医師会議)を訪ねた。以前、スェーデン編とドイツ編の中でIPPNWの紹介をしたので、覚えて居られる読者もあるだろうが、ハーバード大学の医師たちによって1991年に設立された良心の団体である。
  アメリカのIPPNWメンバーは3万2千人、現在の主たる活動は国の政策を変えることであると言う。そのためのロビー活動を活発に行っているそうである。
 私たちはボブ・ムシル代表の説を拝聴した。
「クリントン元大統領が平和的と評価されているけれど、実は、強力なNGO(非政府組織)がいて、いろんな組織を作り、アメリカの軍縮を求めるとか、CTBT(包括的核実験禁止条約)の調印、NPT(核兵器不拡散条約)などにも大きな影響力を及ぼしてきたと理解していただきたい。
 問題があった選挙で勝ったブッシュ大統領は国際的な平和を拒否しています。
 IPPNWは、包括的平和運動(頭文字をとってSMARTプログラムと呼んでいます)を、国際的機関、国際的な法と方法を通じて核兵器、軍縮を実現させたいと思っています。アメリカは武器の新開発を止め、先制的戦争をするなということです。国防省すべての予算4500億ドルの優先項目は、他の手段によるセキュリティーとか、若い人たちの教育にエネルギーを移行するべきです。
 アイオワ州では、この運動を通じて市民の意識を集めました。オレゴン州、ウィスコンシン州にも伝わっていきました。ユタ州のマトソン下院議員は核実験防止の旗頭ですが、そのきっかけは、彼の父が州知事だったころ、核実験によって亡くなったからです。IPPNWのローカル会員は、核被害者たちの治療に当たっていますよ。」
私たちは、ムシル氏と入れ替えに部屋に入って来られたトム・グラハム氏の話を傾聴することになった。氏はクリントン大統領時代に政府の特別顧問として軍縮、核兵器制限などを中心に働かれた。現在は弁護士、大学講師、著作家として国際的な平和貢献をして居られる。
 「1998年、日本の首相は『日本は敗戦国である。アメリカの政策に疑問を持つことは出来ない。核の傘の下にいます』といいました。私は日本の政策について尊敬しています。しかし、核の先制使用について拒否の見解を持っていながら、日本政府が積極的でないのはどうしてでしょう。このことを、もっと主張すべきなのです。私は日本には何度も参りました。広島3回、長崎1回、それぞれ核問題の会議でスピーチをしました。被爆者とも話し合いましたよ」と、深い理解を示された。
 その中で、最も印象深かったのは「NPTを無期限に延長するのが日本の役割と思っている」というメッセージだった。

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(IPPNWオフィス)

44 アメリカ編4-09

ヒロシマを学ぶ高校生

 ワシントンDCから列車で1時間半、ウイルミントン駅頭に出迎えてくれたのは日本人の山口氏だった。そこからフィラデルフィアのウエストタウンまで猛スピードで1時間以上もかかった。訪問先のウエストタウン高校は不戦を主張してはばからぬクエーカー教徒の経営する精鋭校とのことである。広大な敷地には牧場や農場もあって、自然の中に生かされていることを実感させられる。細かい心遣いをして下さる山口氏を教員だと思っていたが、実は生徒さんの父親であった。この学校の積極的な平和教育に共感して子息を入学させたそうである。
 05年4月26日の朝、鳥たちの声で目が覚めた。
 午前の学習会はクエーカー教徒の慣わしであるメディテーションから始まった。声を出して祈るよりも自己の内面に語りかけるのを重視する信仰の証である。
 授業の最初は映画が上映された。それは被爆当時の広島市街の様子、被爆者の様子、核兵器の脅威など、記録映画を編集して被爆の実相を如実に物語るものであった。次いで私が被爆体験を語った。生徒たちは私たちの訪問に先立って、事前学習を積み重ねたそうで「核兵器使用を止めるには、どうすればいいですか」「核兵器を広げないためには、どうしたらいいですか」「核技術の輸出入をしている国同士があるのは、どうしたらいいですか」と、堰を切ったように質問を発した。
 中国新聞の岡田記者が「核兵器廃絶以外に核被害を防ぐ方法はない。核がある限りテロがウランを使用する可能性もあるだろう。NPT(核兵器不拡散条約)を確立し、国際的安全を図るべきです。問題のある国々が互いの緊張を取り除くのが当面の課題です。世界は力でなく、信頼関係で解決するしか道はないと思う。そのためには市民の交流が大切なので、そのレベルの運動が必要です」と答えた。
「アメリカの原爆投下は正当であったという考えについて、どう思いますか」と質問が出た。それには、私が以下のような回答をした。「1945年初頭から、日本は東京・横浜・神戸などの主要都市は爆撃され、沖縄はアメリカの大艦隊が上陸、日本人は自ら命を絶つとか、アメリカ兵に殺されるか捕虜になって、悲惨な状態になっていました。降伏は目前でした。7月16日、ニューメキシコ州アラモゴードで原爆実験の成功を確認したトルーマン大統領は、急いで広島に原爆投下させました。私は、原爆投下は間違いであり、広島は実験台にされたと思っています」と答えた。
 その午後、11年生(日本の高校2年生と同じ)に加え、社会人の参加を得てシンポジュームを持った。その模様は、次回に紹介させていただく。

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(高校生との対話)

45 アメリカ編4-10

歴史から学び、未来を拓く

 フィラデルフィアのウエストタウン高校は、不戦を主張してはばからぬクエーカー教徒の経営する精鋭校である。
 05年4月26日の午後、11年生(日本の高校2年生)と社会人と合同の研修会が催された。例のごとく、私は被爆体験を語った。つと立ち上がった女生徒が「被爆したあなたは、どう乗り越えたのですか」と、私の顔をじっと見た。
 私は答えた。「1946年元旦、天皇が人間宣言をしました。47年5月、日本国憲法が執行されて、国民は等しく人権を得ました。アメリカから持ち込まれた民主主義思想によって堂々と社会参加が出来るようになったことは、低い立場にあった女性は喜びと希望を得ました。敗戦から4年後、私が入学したキリスト教主義の女子中学校には、アメリカから来られた宣教師が英語の先生をされていました。放課後、宣教師たちは原爆孤児や被爆者の癒しのために働かれました。私たち生徒は、毛糸で10センチ角のピースを編んで、それらを繋げて肩掛けや膝掛けにするようにと指導されました。クリスマスが近くなったころ、それらを被爆者たちに届けてボランティアの手本を示して下さいました。私の個人的な体験を申しますと・・・ある日、私が宿題をして来なかった理由を宣教師の先生に問いただされました。私は母が被爆のために寝たきりであると言い訳をしました。その後その先生は、出会う度に母の容態を訊ねてくださいました。原爆投下したアメリカは許しがたいけれど、こうした民間レベルの謝罪と善意を受けることによって、私は癒されていきました」。緊張した面持ちで聞き入っていた人たちから安堵の吐息が伝わってきた。
 間髪を入れず「9・11以来、私たちはナーバスになっています。それを分かって下さいますか」と、訴える発言があった。私は「9・11の半年後にグランドゼロに参りました。世界貿易センターの周囲には惨劇の痕跡がありましたが、ニューヨークは元気でした。なぜ、核兵器で壊滅状態になったヒロシマ・ナガサキと同じに受け取らねばならないのでしょうか。アメリカは被害者だという意識を定着させないで、あの事件が起こった原因を考えて欲しい。必ず、そこに至るまでには原因があったのです」と答えた。一瞬、会場がざわめいたが、私は自分の思いを曲げる気は毛頭なかった。
 その翌朝、教師の研修会に参加した。終了後、私が教室を出て行こうとすると、女性教師に呼びとめられた。「あなたに9・11事件について反省をと言われて、私は怒りました。一晩かかかって悩みました。私たちは反省を忘れていました。これからは、深く真相を探る努力をします。ありがとう」と言われた。


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(ウエストタウン高校から千羽鶴を託される)

46 アメリカ編4-11

ヒロシマを表現する芸術家たち

05年4月27日から5月8日まで、ニューヨーク滞在中は広島市出身の造形作家・砂入博史(すないりひろし)氏が通訳をして下さった。互いに自己紹介をして、彼の生家が私の実家と同じ町であるのが分かった。世代の違いがあるとはいえ、共有できる話題に事欠かないのが嬉しかった。
 29日午後、砂入氏が教鞭をとって居られるニューヨーク大学アート科を訪問した。キャンパスというより工場と言いたいような雰囲気である。廊下といわず教室といわず、例えようのない臭いと金属の触れ合う異様な物音が充満していた。学生たちが真剣な面持ちで粘土、ペンキ、石膏、木材、金属類、紙、布などに命を吹き込もうとしてリズミカルに身体を動かしていた。何でも7月末から広島市の被爆建物である旧日本銀行で「平和展」をするための作品作りだと言う。ミケランジェロやロダンの造形物を見慣れている私には、彼らの指先から繰り出されていく物体が何を表現しているのか分からない。
 通された教室は天井がやけに高くて殺風景だった。十数人の学生たちは教室に入ってくるや、片隅にある階段に固まって座った。破れたジーンズ、絵の具は言うにおよばず、粘土や金属の錆にまみれたTシャツや上着、それにチューインガムを噛み続けの彼らの前に立つと、今まで味わったことのない緊張を覚えた。それは、彼らの関心をヒロシマに集中させずにはおかないという意地のような思いが、私の胸中にこみ上げてきたからであった。
 私たちのプレゼンテーションを聞き終わった後、彼らは20センチ角の白い紙で鶴を折り始めた。私たちも仲間入りしたのでガランとした教室に熱気が渦巻いた。しかし、彼らは寡黙だった。心の奥底を伝えるには造形による手段をとる彼らだからと理解するしかない。
 8月18日、広島での再会を彼らと約していた私は2人のスウェーデン青年を伴って広島現代美術館で個展をしている砂入氏を訪ねた。彼の作品は、足首が切り取られた象が横たわっている造形物。彼の説明によれば、象は過去にあった事柄を忘れない動物であると言う。この作品は「ヒロシマを忘れてはならない」というメッセージだそうだ。表現方法については説明を聞かなくては分からない私だが、青年たちは興味深く、しきりに砂入氏に質問をしていた。
 続いて旧日本銀行の「平和展」を訪ねた。そこにはニューヨーク大学の学生達が運んできた作品群があった。私たちも手伝った折鶴が舞っていた。やはり、私には理解不能だが、残酷なことを繰返すなというメッセージが伝わってくるような気がした。学生たちは会場を訪れてくれた人たちから懸命にヒロシマを学んでいると言っていた。


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(ニューヨーク大にて)

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(旧日銀のエキジビション)

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(象の足音)

47 アメリカ編4-12

アメリカのカリスマ

 05年4月27日午前中、私はバージニア州ノーフォークのバージニア・ビーチで空白の時間を持て余していた。地図を見ればマッカーサー記念館がある。アメリカが彼をどのように評価しているか伺うチャンスと思うのだが、やたら広い道路は猛スピードで車が行き交っているので、向こう側に渡る気がしない。ふと、草むらの四つ葉のクローバーが目に留まった。2本目、3本目も、とうとう、8本の四葉のクローバーを摘んで手帳に挟んだ。
 午後3時、「クリスチャン連合(キリスト教原理主義)」の元総裁パット・ロバートソン氏を訪ねた。彼の所有しているビルは西欧の宮殿のような趣がある。アポイントを取ってあったのだが、彼が現れるには時間がかかった。豪華な執務室には歴代の大統領や要人と一緒に撮った写真が麗々しく飾ってあった。それらにはタカ派もハト派もいる。CBN(クリスチャン ブロードキャスティング・ネットワーク)でテレビ伝道師を務めている彼が、信者たちのカリスマとして絶大な影響力を持っていることを裏付けている。
 中国新聞の岡田記者が「アメリカの精神的指導者としての貴方のご意見を伺いたい」と挨拶したら「個人的には核が広がっているのを憂慮しています」と、優等生のような返答をされた。
 岡田記者が、「アメリカは小型核兵器の開発をやめられますか」と尋ねると、「止められないと思う。北朝鮮のように汚い政権などが危ないから、世界のためにアメリカの力が必要だ」。記者は、「それだからアメリカは核を必要としているのですか」と迫った。「アメリカは民主主義を拡げるようにやっている。核保有しているのは世界平和実現への抑止力としてであり、相手が攻撃に来なければ使用することはない。テロ集団が危険です。核保有は悪い奴を捕まえる救急策です。フセインは核を持ちたがり、石油を独占しようとしていた。アメリカは警告を発したのです」と、言い訳めいた返答をされた。
 さらに私たちに向けて「広島と長崎は不幸なことになりましたが、それは当時の日本の指導者のせいです」と、淡々と、しかも確信に満ちた物言いをされた。
 私は「ヒロシマは力より対話、相互理解しか解決の道はないと考えています。そして核兵器廃絶を望んでいます。イスラムとの和解も対話ではないのでしょうか」と訴えたが、笑顔がかえってきただけだった。
 退去してタクシーを待つ間、ビルを囲むように広がる庭園を眺めると、広島の平和公園にある「平和の灯」(世界中の核兵器が廃絶するまで燃え続ける)に似ている建造物があり、炎が上がっていた。「この灯、どんな意味があるのかな」とメンバーが声をあげた。岡田記者が「この世にイスラム教徒が居なくなるまで燃え続けるのさ」と、すかさずジョークを言ったが、笑い出す者は1人としていなかった。


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(パット ロバートソン氏)

48 アメリカ編4-13

四葉のクローバー

 05年4月28日、教育者ですと自己紹介された中年の男性に伴われて3年振りのグランドゼロに立った。すっかり整地された跡地は、建設に余念のないのが異様である。彼の後ろを追いていくと大きなビルの受付に出た。厳重なセキュリティーチェックを受けて内部に入ると、9・11犠牲者の祈念堂だった。写真、手帳、衣服、装飾品、ネクタイ、指輪。家族や友人からのメッセージ、詩、絵、手紙。豪華な造花は枯れないようにとの配慮であろう。そして、数々のアメリカ国旗。日本人犠牲者の写真や弔辞もある。床に座りこんだ母と幼児が遺影に向かって話しかけている。あそこにも、こちらにも。どこへ視線を投じても悲しみがこみ上げてくる。
 でも、と私は思う。被爆後の広島には、癒しの場面が無かった。ヒロシマ・ナガサキの死者たちは1片の写真も残せなかった。こんな立派な祈念堂で、死者を偲ぶことすら出来なかった、と。
 祈念堂を辞して9・11犠牲者の遺族会、ピースフル・トゥモロウズの事務所に案内された。好戦的なブッシュ政権に抵抗して報復を止めるように進言しているこの団体は、今や、世界中の平和運動家の耳目を集めるまでに大きくなっていた。
 遅れて部屋に入って来たコーリン・ケリーさんが、私の正面の席に着かれた。「は~い。ケイコ」彼女が驚きの声をあげた。私は立ち上がって「お土産があるの」と、彼女の手を取って、ノーフォークで摘んだ四葉のクローバーを包んだティシュペーパーを差し出した。それを見た彼女は「ワッ~」と、手を口にあてて泣き出した。周囲の人たちは、その騒ぎに驚いて、ケリーさんと私を見つめた。
 3年前、彼らとの対話集会がニューヨークの仏教寺院で開かれたとき、私は「ヒロシマは、原爆投下のあと、75年は草木も生えないと言われたのです。でも、4年後に進学した女子中学校の校庭に四つ葉のクローバーが沢山生えたので、大喜びで讃美歌や聖書に挟みました。4つの葉は、希望、信仰、愛情、幸のシンボルだと言われています。私は、不幸な目にあったヒロシマだから、神様が幸せを運んでくださったと信じました。しかし、それが放射能に因るものだと知ったとき、落胆しました。世界貿易センターの跡地には四つ葉のクローバーは生えないでしょう。9・11事件で核兵器が使われなかったことを喜んでください」と発言した。
 私が話終えたとき、ケリーさんが私を部屋の隅に呼んで「ほら、見て」と、スカートの裾を引き上げた。太腿に四つ葉のクローバーの刺青があった。「9・11で亡くなった兄がしていたのよ。だから、私も同じ図柄に刺青をしたの」と涙ぐんだ。
 今回のケリーさんは、私にウインクして「兄は、私が生きる道を示して呉れたのよ」と太腿を叩いて微笑んだ。


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(ケリーさんと再会)

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(四葉のクローバー)

49 アメリカ編4-14

アキバプロジェクト

そもそも、アメリカにおける第二次世界大戦の評価は「パールハーバーに始まり原爆投下に終わる」が定説である。原爆投下を正義と見なすアメリカは、ヒロシマ・ナガサキに謝罪するどころか、「多数の人命を救った」と虚言を弄しているばかりか、アメリカ市民に、それを定着させている。
 70年代、中国新聞社と広島国際文化財団は、アメリカのジャーナリストに原爆の実相、被爆後に起こった諸問題、全世界に起こっている核問題を理解させるためのプロジェクトを立ち上げる準備を始めた。現・広島市長秋葉忠利氏がマサチューセッツ州ボストン近郊にあるタフツ大学で教鞭をとって居られた。氏の並々ならぬ尽力によってヒロシマ・ナガサキへの招聘がスタートしたのが1979年だった。この事業は「アキバプロジェクト」と名付けられて10年続いた。総計40人のジャーナリストを招聘し、学習させた成果として、現在のアメリカの正義を問いただす力になっている。
 世界平和ミッションに途中から参加した私を、オハイオ州コロンバスの空港に出迎えて下さったのが、オービリン大学教授のダイアナ・ルースさんだった。80年、アキバプロジェクトの1員として広島の地を踏んだとの事。04年8月、高校生の息子ケビンさんと、再度のヒロシマ体験をしたそうだ。
 彼女は、ミッションの行程に合わせ、オハイオ州ウイルミントン、ワシントンDC、ウエストタウン高校、ニューヨークと、駆けつけて下さったばかりでなく、骨身を惜しまず名アドバイザーの役目を自らに課した人だった。5月1日、ニューヨーク、セントラルパークへの平和行進の先頭を歩いてくる秋葉市長に精一杯の声援を送っておられた姿は、私の脳裏から去らないだろう。
 著述界で活動されているグレッグ・ミッチェル氏もアキバプロジェクト出身ですと、誇りをもって自己紹介された。若い世代のために映画「チャイルド・ボム」を製作しました。その仕上がりには自信がありますよ・・・と、言われたとき、私は不思議な邂逅に驚きの声をあげた。私は、日本人スタッフから口説かれて声の出演をしていたからである。
 私は「今まで、いくつもの反戦とか核廃絶をテーマにしている映画製作に協力をしました。出来上がったら見せてくださいと、お願いしましたが、叶えられたことが無かったです。『チャイルド・ボム』は私が受け取った最初の作品です」と、感謝の辞を述べた。グレッグ氏は、私より何倍もの驚きを身体一杯に表現された。
 帰国後、氏の著書「アメリカの中のヒロシマ」(岩波書店)を紹介されたので購入した。噛み応えのある内容なので、少しずつ読んでいる。まだ、下巻もあるのだ。 


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(ダイアナさんとセントラルパークにて)

50 アメリカ編4-15

ニューヨークの日本人教師

 どの宗教もそうだが、聖典の解釈が異なると信仰のスタイルも多様化し、細分化する。キリスト教も例外でなく、ブッシュ大統領も自らを敬虔なクリスチャンと名乗り、彼の流儀によってイスラムを攻撃しているのである。
 キリスト教プロテスタントの一派であるクエーカーは、とみに真摯な信徒集団である。通常の教会には牧師が信徒や求道者を導くが、クエーカーは人の上に人を置かず、瞑想によって「内なる光」を見つめると同時に、権力に屈せず、絶対平和主義を貫いている。仏教の禅宗に似ていると言えば、その筋から反論されるだろうか。
 05年4月29日、私たち世界平和ミッションは、クエーカーが経営しているニューヨークのブルックリン高校を訪問した。
 まず、私たちが携えてきた被爆写真の展示の準備に取り掛かろうとしたら、教師陣が「生徒たちは敏感な年頃です。強い刺激は困ります。悲惨な写真は展示しないで下さい」と言うのだ。私は、「何故、見せないのですか。目隠しをして、何を伝えようとしているのですか」と、教師陣の中にいた日本人教師に言った。彼女は「私も、事実を直視させたいのです。でも、この国のやり方は違うのです。若い人たちを辛いことから守ることが、重要なのです」と答えた。
 私は、「この国の戦争は兵士だけが戦います。アメリカ以外の国々では、幼児も女性も差別なく死んでいったのです。原爆は人を選ばず破滅させたのです」と言い放った。
 しかし、招聘した側の思う通りにプログラムは進んだ。私に許されたのは15分程度。これで生徒たちは「ヒロシマを理解した」と思うのだろう。それでもいいや、多くのアメリカ市民は、広島に原爆投下によって多くの人命を救ったと信じているのだから、クエーカーの人たちが聞いてくれただけでも、よしとするかと、気を取り直した。
 授業の最後に、広島県の山陽女学園が贈った千羽鶴を掲げて、満面の笑みを湛えて記念撮影をした。
 外部から持ち込んだ行事をこなすのは、おおむね学校ぐるみではなく、教師、取り巻きの人たちの配慮、生徒たちの要望によるのがアメリカ流である。このプログラムは、日本人教師・牧島ミエさんの熱意によって実現したそうである。私と問答したことを、しきりに恐縮する彼女に「アメリカでは、どこでも悲惨なものから目をそらすようですから、慣れっこですよ。クエーカーだからこそ、ヒロシマを語るチャンスを下さったのですね。ありがとう」と、素直に挨拶することが出来た。


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(ブルックリン高校)