2010年05月05日

21 ドイツ編

ドイツの日本人

 三重県出身の横田・ウイラー・萬里さんはエッセン交響楽団のヴァイオリニストである。夫君は旧家出身のドイツ人である。01年、広島からの平和行脚団の通訳ボランティアをして下さったのが私との最初の出会いだった。

 以前から核問題に関心のあった彼女は、私に再度の訪問を促す便りを下さった。在ドイツの日本人の手でヒロシマを伝えたいという内容だった。

 そして、ヒロシマを深く知るためにと、02年8月6日には、広島平和祈念式典、核兵器廃絶国際シンポジュームに駆け付けられた。私のドイツ訪問はスウェーデンの帰途に伺えば僅かな経費で実現することも分かってきた。計画は着々と進行した。

 11月、私は彼女の住むデュセルドルフ近郊のリクリングハウゼンを訪ねた。

 03年10月に3度目の訪問をした際、萬里さんの夫・ヤーニーさんはアメリカが原爆投下する前後の世界情勢についてレポートを用意されていた。広島原爆資料館から提供されたヒロシマ・ナガサキの大判の写真は丁寧にベニヤ板で補強され、ワゴン車に積まれて待機していた。

 夜、識見者を前にして、ヤーニーさんと私はヒロシマを伝えるシミュレーションを何度も何度も繰返した。私たちにとっても聞いてくださる人たちにとっても一期一会だから、満足度に達するのは容易ではなかった。

 不安なままに最初の高校で1回目のプレゼンテーションを行った。2回目の時、生徒の数が予定をオーバーしていた。その理由は、教員たちとのティータイムで分かった。1回目に聞いた生徒たちが次の授業の担当教師に「先生の授業は明日でも受けることが出来るけれど、ヒロシマの話を聞くチャンスは2度目がないだろう。もう1度、ケイコの話を聞きたい」と申し出たからだそうである。

 翌日も、その翌日も高校を巡った。申し合わせてもいないのに、それぞれの高校で、同じような事が起こった。

 3番目の高校では、最後のプレゼンテーションは広いエントランスが用意されていた。被爆者の話を生で聞ける機会は、2度とないだろうからと、教師は勿論、職員たちも聞くようにと配慮されたそうである。
 私はウイラー家の花壇にピンクのバラを記念植樹した。花咲く季節に再訪したいものである。

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(横田夫妻と)

22 スウェーデン編 2-1

ヒロシマは平和を選んだ

 広島市の我家の近くに住んで居られたキリスト教宣教師ヨーディスさんには彼女の母国スウェーデンからの来訪者が後を絶たなかった。教会関係、医学関係、教育関係、政治家が殆どだった。私はその都度、彼らのヒロシマ学習のお手伝いをした。時には日本料理を味わって貰ったし、着物、お点前、活花に触れるチャンスも作ってあげた。

 2001年3月、引退されたヨーディスさんが帰国された。半年後、私は彼女を訪ねようとしていた。彼女が「啓子が来ます」と、私が広島で出会った人たちに伝えられたので、多方面から被爆体験を語って欲しいと要請が相継いだ。プログラムはヨーディスさんによって周到に用意された。

 10月半ば、ストックホルムから文字通り東奔西走の旅が始まった。移動の度に、車窓から眺めたのは黄葉した森と鏡の面を思わせるような湖だった。どの湖にも白鳥の群がいた。まさにサンサーンスやチャイコフスキーが表現した世界であった。
  
 どの訪問先も、精一杯のジャガイモ料理が私を待ち受けていた。集って下さった人たちは、私の被爆体験とヒロシマから発信される平和への提言に耳を傾けて下さった。加えて、核時代に突入した現在の世界情勢に歯止めをする方法についての意見が続出した。

 どの集会でも「被爆者はアメリカを憎んでいますか」と訊かれた。「私個人もですが被爆者の大多数は憎しみを持っていません」と言えば「それは驚きです。通常兵器でなく、核兵器で悲惨な目にあったのに、何故、そんな気持になったのですか」と詰問された。私は「戦争をしたのも原爆を開発したのも人間です。核兵器によって壊滅状態になったヒロシマだからこそ、人類の冒した罪を繰返さないと誓ったのです」と答えた。どの会場でも例外なく、どよめきが起こった。

 聖書には「赦しなさい」と記されている。キリスト教信者の多いスウェーデンで、そんな質問が出ること事体、私には不思議だった。

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(子どもさんに千羽鶴をあげました)
 

23 スウェーデン編 2-2

戦没兵士の墓

 スェーデンの西海岸ヨーテボリの沖合いに、瀬戸内海のように小さな島々が点在している。西南端のヘーノーには滞日35年のベリット・ブリンゲルソンさんが住んで居られるから、1995年に初めて訪れて以来、その後も、訪スウェーデンの度にお邪魔して休日を過ごしている。顔見知りになった島の人たちは、島の名を日本語訛りで発音する私に、こりないで発音の特訓をして下さるが、未だに彼らの気に入った発音は出来そうもない。

 ベリットさんの属している教会で初めて被爆体験を語ったのは95年で、2度目は2001年だった。その時は教会員以外にも多くの人たちが私の被爆体験を聞くために集って来られた。その後は希望者だけで懇親会ということになったが、家路を急ぐ人もなさそうで、参加者は我先にと挙手をして発言された。まるで権威ある会議のようだった。

 200年以上戦争をしていない自国を誇りにしていると語る人。1950年に国民1人1人が自覚を持って「原子兵器の使用を禁止しよう」とのスローガンを掲げてストックホルム・アピールを発信し、世界中から6億の署名を集めたと、被爆者の私に念をおすように言われる人。私は、それぞれの思いの熱さに圧倒されっぱなしだった。私が持っている世界地図帳には載ってもいない小さな島の人たちが、熱心に発言されるのを傾聴していると熱いものがこみ上げてくる。

 私は、手のひらサイズの和紙に包んだ京菓子と煎茶をテーブルに配った。平素は大振りなカップでコーヒーや紅茶に親しむ人たちにとって、少量で苦味のある煎茶は不思議な味だったようで「啓子が見ていないうちに……」と、砂糖ポットがテーブルを行きかっているのは見ないふりをした。

 数日後、ヘーノー島と橋で結ばれているオッケイロ島にある古い教会を訪れた。その墓地に戦死者の墓があった。第1次大戦・第2次大戦、それぞれにイギリス兵やドイツ兵の死体が何体も流れ着いたと言う。ベリットさんも記憶しているそうだ。

 恒例になっている戦没兵士に捧げる追悼音楽会を聴いた。時代物のパイプオルガンから荘重なバッハの曲が流れた。それは、スウェーデン人にとっての不戦の誓いの儀式でもあるという。

 私は、2004年8月に中学1年生の孫を、05年4月には、1歳下のもう1人の孫を連れて参拝した。私たちは献花して、「全世界が戦禍の地にならないように、若者たちが人殺しを正当化する集団に巻き込まれないように」と、深く頭を垂れて祈った。


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(オッケイロ教会にある兵士の墓)

24 スウェーデン編 2-3

旧交を温めて

①オンションスビックにて

 歴史教師のヘレン・ストローマーさんは旧知の間柄である。彼女は生徒たちにヒロシマを伝えたいからと、私の訪問を待ち焦がれて居られた。ストックホルムから500キロ北にあるオンションスビックへは列車とバスを乗り継いで行くので半日以上もかかった。

 パーク高校は小高い丘の上にあった。校内のあちこちにあるテレビモニターに日の丸と歓迎の文字が目に付いた。それに続いて「ヒロシマの被爆者・村上啓子さんの被爆体験を聞こう」と、メッセージが流れた。

 ヘレンさんによって事前学習をしていた生徒たちは、私の話を食い入るように聞いてくれた。ヒロシマが昔話ではなく、未来ある自分たちの課題であることも知っていた。


②ヨンショピンにて

 アニタ & グンナー・ウエストブロムさん夫妻、マリアンヌ・グラナフさん、リリー・パールソンさん、名前をあげればキリのないほど知人の多い町である。その人たちの計らいで被爆者・村上啓子は超多忙だった。昼間は学校、夜間は集会。日本の伝統文化を紹介したいから活け花や着物の気付けのパフォーマンスもした。

 最後の集会で「ノーベル平和賞はヒロシマやナガサキの市民たちに上げたい」と発言があった。紅潮した私は「是非、ノーベル平和賞を下さい。私たちは、どこからも援助を受けることなく、自費で平和運動をしています」と言った。

 人々が去った後、新聞社から取材に来たと、精悍な男性記者が現れた。彼は矢継ぎ早に私に質問を浴びせた。そして私の被爆体験記を見せてくれた。きょとんとしている私に「啓子さんが初めてヨンショピンに来られた時に取材させて貰いました。あれ以来、私は核廃絶問題に取り組んでいますよ」と言った。そう言えば、1995年に来訪した際、私の被爆体験を聞いて涙を浮かべていた彼ではないか。今の彼は、ひ弱で泣き虫の青年とは別人のようだった。


③ストックホルムにて

 明日は日本へ帰るという日。かつて広島で出会ったキリスト教バプテストユニオンのグンネル・アンドレアソンさんに会った。「もっと多くのスウェーデン人が知らなくてはなりません。準備しておきますから、来年も来てください」と言われた。

 帰国の飛行機の中。私は、はやくも1年先のスウェーデン訪問に心を馳せていた。

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(パーク高校の生徒と原爆展)


25 アメリカ編 2-1

9.11・グランドゼロ

 9・11事件の半年後、『核兵器廃絶をめざすヒロシマ市民の会(略称:HANWA)』はアメリカの良心を求めるツアーをした。殆どのメンバーが「9・11の遺族と被爆者とは連帯できるだろう」と言ったが、私は無理だろうと感じていた。しかし、歴史的事件の現場を見るのも良かろうと考えたので参加することにした。

 9・11事件の跡地はジャガイモの芽を繰り抜いたように掘り返されて建築現場のように作業員が働いていた。跡地を囲った金網には故人にまつわる品やメッセージが括りつけてあった。その周辺は悲嘆にくれる人や見物人たちで混雑を極めていた。

 グランドゼロに被爆者が来たというので、私たちは報道関係者からインタビューを受けた。彼らの質問は「1945年の原爆投下を思い出しますか?」と一様だった。「同じ様です」と応える仲間も居たが、私は頑として拒んだ。

 私たちは9・11の遺族のグループ「ピースフル・トゥマロウズ」に出会った。このグループは、アフガン攻撃を開始したブッシュ政権に「憎しみの連鎖を断つ」ことを進言すると同時に、戦地のアフガンに出向いて人道援助をしてきたと言う。アメリカの世論がアフガン攻撃を是認する中にあって、このグループが反戦を主張しているのは高く評価したいと思ったが、彼らの口から「ヒロシマ・ナガサキと同じような被害を受けた」といわれたので、私には違和感が深まった。

 夜、仏教寺院で対話集会が開かれた。9・11の遺族たちは故人の思い出を語り、寂しさを訴えた。日本側も被爆の悲惨さを訴えた。双方とも、命・悲惨・死・寂しさなどの共通項のもとに「非戦・平和」への道を辿ろうと競って発言した。

 私は「皆様の悲しみや怒りは私も共有していますが、あの事件が核兵器を使用したものでなかったことを喜びとしてください。好戦的なブッシュ体制に抗して、貴方たちが反戦を訴えるエネルギーを核廃絶へと繋げてください。核超大国であることを当然とするアメリカの現況を直視してください。現時点では、大量殺戮の手段は劣化ウラン弾が主流になっています。やがて、全世界が汚染されるでしょう。世界は限りなく破滅へと向かっているのです」と発言した。

 集会が終わった時、数人の青年が私に寄って来た。「アメリカが率先して実行に移すべきは核廃絶です。そうすれば、ヒロシマ・ナガサキと善良なアメリカ市民との連帯ができますよね」と言われた。やっと、私は共感の意思表示ができた。

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(ピースフル・トゥマロウズと交流)

26 アメリカ編 2-2

ワシントンDC

 ホワイトハウスが見える公園にはスペイン出身のピシオットさんが座り込みをしている。1960年代のアメリカに移住した彼女はアメリカの軍備増強、対外政策を憂慮してロビー活動をしたそうだが、「大統領への直訴」しか方法がないと、家財を整理し、核廃絶のメッセージを書いた立看板を掲げ、1981年から座り込みを開始したという。春夏秋冬、雨風をいとわず片時も休まないそうだから、反核運動家には象徴的存在である。

 公園内は規制がきびしく、トイレに立った留守に撤去されるかも知れないから、忍耐と工夫が必要だ。彼女に賛同する人たちが誰言うともなく彼女のサポートをしている。食事は店の売れ残り物とか支援者からの届け物だけだという。衣服は誰かのお下がりだろう。

 公園に着いて見渡すと、彼女の所在はすぐ分かった。私たちが報道陣に囲まれながら近付くと、彼女は両手を高くあげて私たちに抱きついてきた。

 座っている彼女の風よけにもなっている立看板には世界中から寄せられたメッセージが所狭ましと切り貼りがしてあった。ヒロシマ・ナガサキの写真やコメントも書き込まれていた。彼女の行動を伝え聞いた人たちが来ては去って行くので、彼女は絶えず忙しい。

 彼女に別れを告げた私たちがエネルギー省へ反核を訴えるデモ行進を開始した。反核の横断幕を掲げて行進する私たちの前を在米の日本山妙法寺の修行僧たちがウコンの布を纏い、太鼓を打ち鳴らして誘導して下さった。行列の見物人たちから「リメンバー・パールハーバー」「ジャップ・ゴーホーム」を何度聞かされたことか。しかし、私たちを激励して手を振ってくれる人もいた。

 エネルギー省は警護が堅くてとても近寄れない。遠巻きにして大声で反核を叫ぶしかないが、監視者が遠くから私たちの写真を撮っている様子だった。それでも、私たちは舗道の脇に陣取って、長時間の座り込みをした。

 次に訪れた2005年4月、ピシオットさんの姿は公園にはなかった。とても意志を曲げるような人ではなかったから、排除されたのだろう。NPT再検討会議の開会が目前で、国中がピリピリしている時期だもの。

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(ピシオットさん)

27 アメリカ編 2-3

アトランタ

アトランタといえば、マルチン・ルーサー・キング牧師の出生地であることとマーガレット・ミッチェルの小説「風と共に去りぬ」の舞台になっている地という程度の粗末な知識くらいしか持ち合わせがなかった。

 私たち、反核平和使節団が訪れた2002年5月。市街地には高層ビルが建ち並び、高速道路を車が疾走していた。かつての時代、奴隷が綿積みをしていたと思い描くのは難しいが、出会う人たちの大多数が有色なので、歴史の残影として想像出来なくもない。

 この地には、いざ戦争という時に駆り出される側の人たちが住んでいるとも言えよう。だからこそ、ヒロシマ・ナガサキを生徒たちに聞かせたいと願う教師たちがいた。

 私たちは手分けしてラジオやテレビに出演し、「広島・長崎への原爆投下を責めに来たのではない。核廃絶を訴えに来た」と発言した。放送中、放送局に聴取者から「リメンバー・パールハーバー」と、何本も電話があって、私たち代表が対話をしたので、それらが電波に流れた。

 明日は学校訪問という前夜、打ち合わせ会議をしているところに現場の教師から電話が入った。教育委員会からヒロシマ・ナガサキの反核平和使節団を受け入れてはいけないと通達があったというものだった。綿密な準備をしていた私たちの会話が途絶えた。

 生徒たちとの対話こそ、私たちが望んでいることだった。広島、長崎の市民からアトランタの生徒たちへ託された折鶴のレイも用意してある。英語で話そうと、にわか仕込みの英語特訓をした仲間もいた。

 同行している報道関係者も固唾をのんで私たちの動向をうかがった。時計の針が早回りしているように時間が過ぎて日付がとっくに変わっていた。

 2度目の電話が入った。私たちを招こうとしている教師たちは、「教育委員会からの処分も辞さない、手引きをするから生徒たちに伝えて欲しい」と言う。

 その言葉を聞いた私たちは、意を決して強行することにした。だが、逮捕者が出たら日本に無事に帰れるだろうか、アメリカに再入国する資格を失うかも知れない、報道されたら困るなどと小田原評定を繰返した。

 3度目の電話が鳴った。現場の教師からだった。放課後、校門の外で待ち受けて、下校する生徒たちと対話をして欲しいとの提案だった。私たちも同じことを考えていたので即決だった。夜明け近くなっていた。

 昼下がり、下校する生徒たちの首に折鶴のレイをかけて上げた。生徒たちは「ヒロシマ・ナガサキの話が聞きたかった。核兵器廃絶に向かって努力をします」と言ってくれた。

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(アトランタの教員たちと)


28 スウェーデン編 3-1

紛争地へのまなざし

 2002年10月半ばから1ヵ月半の長丁場では心身ともに疲れるので、ヒロシマを精通している翻訳家の宮本慶子さんに前半を、市川和子さんに後半をと同行して貰った。

 スウェーデン人たちの殆どが英語を話せるとは言え、それは若い世代のことであって、全般的なことではない。

 学校、教会、集会、パーティーなど、車に乗り、列車に乗り、地下鉄に乗って移動しつつプログラムをこなした。

 ソデテリアのラジオ局から取材を申し込まれたときは、とっさの判断で、その年の8月6日、広島平和公園で演奏したヒロシマの歌「世界の命=広島の心」の録音テープを差し出して、バックに流すようにお願いした。私は、スタジオに流れる曲を聴きながら被爆体験と核廃絶への思いを語った。

 1週間後、30年くらい前に静岡県にあったスウェーデン人学校の教師だったマリア・ビュイックさんが待っているベステローサに移った。彼女は日本語が話せると期待していたのだが、今では殆ど忘れたと言われて、通訳には日本語の流暢なウッラ・ウオーレンさんを紹介して下さった。いよいよ自分が通訳する出番だと待機していた慶子さんは、ちょっと落ち込んだように見えた。だが、被爆体験を語り終えたあと、質疑応答の時間になると、彼女が学習しているヒロシマを伝えようと努力されたのは、私にとっても学びの時であったし、彼女にとってもいい経験だったと思う。

 プログラムの中で、とくに印象に残ったのは、教会の女性グループだった。集会場に入ったとき、目に飛び込んできたのは彼女らがテーブルについて手作業をしている光景だった。聞けば、アフリカのコンゴに起きている部族紛争地帯で活動している国境無き医師団の機関に、不要になった木綿のシーツ類で包帯を作って送るのだそうだ。「私たちは、今、地球上にある不幸に手を差し伸べています。今夜も手はコンゴの為に動かしていますが、耳はヒロシマを聞こうとしています。どうぞ、お話しください。いかなる場合でも核兵器が使用されてはなりません。傾聴します」と代表者が言われた。私は、かつて経験したことのない情景を目の当たりにしながら懸命に語った。通訳をしなくてよくなったので手持ち無沙汰になった慶子さんは包帯作りの仲間入りをした。

 私の語りが終わると作業も終わった。音楽室で練習を終えた聖歌隊が静かに入ってきて、讃美歌をコーラスした。人々は言葉を交わすことなく目礼して家路についた。

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(作業中の女性たちに語る)

29 スウェーデン編 3-2

もっとヒロシマを

 ノールショピンはストックホルムから南西120キロ。医療大学の教授ビルギット・フョルガードさんが私たちを受け入れて下さった。インドで宣教師をしていたというだけあって、室内は置物、織物、壁掛けなど象のオンパレードだった。彼女を訪ねて来る人たちは、それらを見るのが楽しみだという。

 医療大学ではイランから来たという学生に出会った。彼女は戦乱を逃れて来たが、やがては祖国に帰って医療に尽くしたいそうだ。彼女の話では、この近辺には中東から逃れてきている学生が多いそうだ。母国は敵対していても、ここでは仲良しですと言った。劣化ウラン弾による被害にも精通していた。私が森住卓氏の写真集を進呈すると、何度も頷きながらページをくっていた。

 ビルギットさんの家で反戦・反核をテーマにパーティーをすることになった。「おでん」を所望されたので市場に急いだ。適当な食材が見つからなかったが、何とか「おでん」らしい物が煮あがった。参会者の中に大阪と広島に行ったという人があって「あぁ、懐かしい日本の匂い。おでんを注文したのは私です」と言われた。

 ボーラスは、さらに西南250キロ、スウェーデン有数の工業地帯である。もともと人口の少ない国だから労働を移民に頼っていたので、産業は不安定気味だった。1995年のEU加盟後、難民の流入が急増したので雇用が進み、経済活動が勢いを取り戻したそうである。

 訪問した教会附属の学校は生徒300人くらい、36カ国の生徒がいるという。肌や髪の色、体格もさまざま。彼らがここに辿り着くまでの軌跡もさまざまである。スウェーデン語を履修するのは義務だが、秘かに英語を話しているのが分かったので、通訳として私に同行していた宮本慶子さんは休憩時間になると生徒たちの中に入ってヒロシマを熱心に伝えた。

 この講座は市民にも公開されたので後部座席を社会人が占めていた。その中に居られたヤン・スメドゥミア氏から夕食の招待を受けた。彼は貿易関係の仕事で何度も来日されたという。「日本ではオフィスより温泉や料亭でノミニケーションしながら仕事をします。最初は驚きましたが、すぐに馴れました」などと笑わせて下さったが、真顔になって「世界中の人たちが、もっとヒロシマを知らなくてはなりません」とも言われた。

 私たちが帰国して2ヶ月後、彼から、翌2003年、教育界・経済界の支援で若者千人の研修会をするから、講演をするようにと要請があった。


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(ノールショピンの街並み)


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(熱心に質問する学生たち)

30 スウェーデン編 3-3

核戦争防止に向かって

 
 01年のクリスマスイヴ。スウェーデンから来広されたガボー・ルンクマニ医師夫妻を広島市の流川教会で行われる聖夜礼拝にお誘いした。チェコ出身でキリスト教信者のガボー氏は広島でクリスマスを迎えたことを喜ばれた。仏教徒だと言われる妻のティローレさんは「機会があったらキリスト教会に行ってみたかった」と心を動かされた。

 会堂に1歩足を踏み入れると、パイプオルガンの荘重な音色が身に迫ってきた。礼拝堂の正面には被爆して黒こげになった十字架が天井から吊り下げられている。仰ぎ見た夫妻は、その壮絶さに圧倒されて言葉を失ってしまわれた。

 翌年、私がスウェーデンの反核兵器を提唱している医療団SSAMKの研修会に招かれたのは、そのご夫妻の計らいであった。

 昔から学問の府としての歴史を刻んでいるウプサラは11月ともなれば午後3時過ぎには暗くなる。まして片栗粉のように細かくサラサラの雪が降っているので自転車に乗った学生たちの群が影絵芝居のように幻想的だった。

 研修会のプログラムは、核問題を医学的に追及するだけに留まらず、EU加盟国としての道義的・経済的な面からも論じる内容だった。

 広島平和記念資料館(原爆資料館)提供の資料が展示してあったから、参加された面々のヒロシマ・ナガサキへの視線は熱く、私の被爆体験も医学者としての見識をもって傾聴して下さった。ガボー氏は広島訪問後に被爆後遺症についてのレポートを発表されていたので、部会では質問を一身に集めて居られた。論議は専門的なことに終始していたようなので、私には理解できないが、非戦・反核の意気込みだけは伝わってきた。

 その夜、ウプサラ大聖堂で演奏されるハイドンの天地創造を聴きに行った。

 あれ以来、スウェーデンを訪れる度に列車の窓からウプサラの町並みを眺めた。その度に、ルンクマニ夫妻とクリスマスイヴを過ごしたこと、核兵器廃絶に心を砕いている医師団に出会ったこと、厳粛な「天地創造」を聴いたのを思い出している。

 ちなみに、SSAMKは85年度ノーベル平和賞を受賞したIPPNW (核戦争防止国際医師会議)に連なっている良心の団体である。次回は、ドイツのIPPNWとの出会いについて披露することとする。

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(会議の合間に談話するSSAMK会員たち)