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2007年06月27日

アメリカ編1-1

アフガン女性
 
 1998年、広島に拠点を置くワールドフレンドシップセンターから派遣されてアメリカ東北部5州を行脚した。メンバーは長崎の被爆者、学生二人、私の計四人だった。

 9月15日、メリーランド州アナポリスに着いたのは広島を発ってから23時間も経っていた。私はアジア料理店を経営しているアフガン人ファヒマさんの家にステイすることになった。内心では「アメリカに来たのに、何故、アフガン人の家なの?」と不満だった。彼女の夫はアメリカ人で、日本人を招くのに賛同しているようには思えなかった。

 6日間の滞在中、夜な夜なファヒマさんから身の上話を聞いた。最初の夫はアフガン人だった。度重なる戦乱のせいでアル中になって死んだそうだ。近親者が地雷で身障者になった。化学者だった彼女だが、肉親を戦乱の地から救い出すためにアメリカに来て商売を始めたことなど、辛い話ばかりだった。「でも、今の夫に救われたのよ」と、嬉しそうだった。さらに「新聞で被爆者が来ると知ったので、私の家にステイするように頼みに行ったのよ。啓子なら、私の苦しみを分かちあってくれるよね」と言った。

 彼女の夫は、私がアメリカの原爆投下を責めるのではないかと思っていたらしいが、ファヒマさんに勧められて私の被爆体験記を読んでから、私たちの平和行脚を理解しようとするふうに見えた。だが、互いの距離が縮まるほどにはならなかった。

 他のメンバーは、典型的なアメリカ人の家にステイしていたから、陽気な話題に事欠かないようだったが、私がアジア料理を堪能していると知ってから「羨ましい。ジャンクフードばかりで、咽喉を通らなくなりそう」と言った。

 別れの時、「日本に来てください」と、ファヒマさんに挨拶したら「駄目。お金が溜まったら肉親をアフガンに連れに行くの。啓子こそ、またいらっしゃい」と、言われた。

 9・11以後、アメリカがアフガンを攻撃した。アメリカに居住しているアフガン人が居心地の悪い思いをしているそうだが、ファヒマさんは妹夫妻をアフガンからアメリカに呼び寄せたし、レストランは繁盛していると、教会関係から伝わってきた。それが本当であって欲しいと祈るしか、私に出来ることはない。


(レストランを切り盛りするファヒマさん)